THE OWN WAY
ハチミツ二郎(お笑い芸人)

淡々とした表情と独特のツッコミ口調がコアなファンを魅了する、ハチミツ二郎。15歳になった年、手ぶらのまま生まれ育った岡山を飛び出し、単身東京へ。定時制高校を卒業した後に東京NSCの第一期生としてお笑い芸人の道を歩み始めた。レスラーとしても1年の沈黙を破ってリングに戻ったほか、自伝的小説や書籍執筆など文才も発揮。女性に留まらず多くの男たちが慕う、多芸多才・人間味に満ちた彼のルーツに迫る。

売れるためのネタじゃなく、俺らの笑いで世間を変える。

 身長178cmの大きな身体を揺らし、彼はゆっくりと現れた。無精ひげにこの体躯、間違えようがあるまい。漫才コンビ「東京ダイナマイト」ハチミツ二郎である。2004年の「M1グランプリ」に出場するやいなやその人気は全国区となり、「THE MANZAI」では2回の認定漫才師として選出。その実力は誰もが認める折り紙付きだ。「岡山という土地がお笑い芸人として、レスラーとしての自分のルーツかもしれない」と話すその所以は、彼が幼少期にふれたTV番組の存在にあった。 1981年の蔵前国技館。初代タイガーマスクのデビュー、ダイナマイトキッドとの一戦はプロレスファンなら誰もが知る《運命の一戦》だが、当時7歳、幼少時の彼もTVの前に釘付けになった。「入り口はアニメ。『タイガーマスクってアニメなのになんで実際に戦うの?』子どもの自分には意味がわからなかった」。プロレスファンの兄の横で観た、画面で次々と繰り広げられるダイナミックな空中技と華麗なテクニックに魅了されてしまう。間もなく、子ども達が皆夢中になった仮面ライダーやウルトラマンなどの《特撮もの》への興味を失った。「リアルのすごさを見てしまったんだから当然」。それから二郎少年の将来の夢にはまず、《プロレスラー》が刻まれる。 同時期「オレたちひょうきん族」の放送が開始。少年の目に映ったのはビートたけし扮する「タケチャンマン」だった。「ヒーローなのに面白い!」、少年の胸にはタイガーマスクと同様にタケチャンマンが刻まれることになる。「関西ローカルと全国ネットの番組を両方観ることができた」、この環境こそが二足の草鞋を彼に履かせることになる。「岡山出身の芸人仲間も皆口を揃えます。当時のTVの影響はそれほど大きかったんです」。

爆発的なお笑いブーム。ツービートや明石家さんま、そして次に続くダウンタウン、とんねるずなど、芸人はアイドル的な人気を誇っていた。「芸人が憧れの存在として存在していた時代でした」。 憧れを抱きながらも、成長した彼はやんちゃの限りを尽くす。家出デビューはなんと3歳、中学時代は教員への反抗心をむき出しにし、喧嘩に明け暮れる毎日。15歳になると、着の身着のままで単身東京へ。定時制高校へ入学し、昼間はアルバイト、夜は学校と多忙ながらも、夢へ向かっていく手応えを感じながら過ごした。卒業後、東京NSCの第一期生としてついにお笑い芸人としての第一歩を踏み出す。「子どもの頃から冒険心が旺盛だったんでしょうね。自分は《何か》できると思い込んで、一つ処で留まらずにすぐに飛び出してしまう」。3年前に父が他界、その際に実家は売ってしまった為、それ以来倉敷には帰れていない。「神奈川出身の妻にとっても倉敷ははじめての《田舎》なんです。娘も来るのを楽しみにしていて、いつかこちらに居場所をつくりたい」と、願っているという。 お笑いにふれることのある日本人であれば、東京ダイナマイトの存在を知らない人はいないだろう。ましてや彼のインパクトある雰囲気と存在感はどこへ行っても注目の的であることは想像に難くない。「顔が売れているのに、収入が思うほどでない今はかなりキツいですよ。今はよしもとだからギャラが少なくて(笑)」。1ヶ月のギャラは最盛期よりも落ち込んでいるのに、業界では名の知られている先輩芸人、しかも男気あふれた性格。当然慕う者は数多存在するから、見栄を張ることも少なくないという。「電車で帰ろうと思っていても、後輩がタクシーを停めてくれたら乗らざるを得ない。仕方なく、後輩たちが見えなくなってから降りることもあります(笑)」。

実は今が、芸人人生の中でもっとも辛い時期だと話す。 存在感は確かに世間に響いている。テレビにこそ出ないものの、単独ライブをすれば即完売。しかし、一時に比べれば、TVで彼らを観ることができる機会は少なくなったと感じられるのもまた事実。彼らの《お笑い》は、ライブ目当てに劇場へ足繁く通うファンのためだけのものなのだろうか? 彼らの露出が減ったと見える理由の一つは、彼らがM1でその名を轟かせてから間もなく、世の中の《お笑い》へのニーズが変化したことにある。「数年前、ショートネタ番組がはじまり、キャッチーなフレーズやリズムネタが流行。すぐさま全盛を迎えました。俺たちは《自分たちが面白いと思うもの》を世に出してきたつもりだった。だけど、世間にウケたのは俺から見たら《売れようとしている》だけのものだったんです」。 正直、「素人よりつまんねえ」「テロップに助けられている」「ただのお祭りじゃねえか」としか思えなかった。しかし、同時に「このままではいけない」とも感じていた。「こんなものがもてはやされる状態が長く続くわけがない」。当時海外で話題になり始めていた動画配信サイトに必ず取って代わられる——《お笑いのプロ》としての自負は、その未来に不安を感じていたという。 「好きなことをメチャクチャに、目いっぱいやってやろう」。たとえ今は認められなくても、自分たちの信じた《お笑い》だけをやろう、と決めた。それしかできなかったし、するつもりもなかったのかもしれない。 間もなく彼が懸念したとおり、《ウケ狙いの薄っぺらいお笑い》番組と出演芸人はどんどん淘汰されていく。代わりに台頭したのは千鳥や野性爆弾。《自分らの好きなことをメチャクチャやってた》芸人たちだ。「大衆がひっくり返った、と思った」——以来、自分たちのやり方に手応えを感じ、ますます世の中に迎合したネタはもれなく封印。「『売れるためのネタ』『審査員が喜びそうなネタ』ではなく、俺らが面白いと思うものだけを創り上げていきたい」との思いを一層深めた。「ひっくり返ってないのは俺らだけ! 早うひっくり返れや! と思いながら今のところやってます(笑)」。 

2019年、平成最後の年を迎えて、彼が今やりたいこととは何か。「正直、やりたいことはほとんどできてしまってる。大仁田厚さんとの電流爆破デスマッチも実現させてもらった。メキシコでのライセンスも獲得したし、なんばグランド花月での単独ライブも経験できたし…」。しかし、たった一つ未だ実現できていない《約束》がある。それが、ニューヨークでの漫才公演。ハチミツ二郎は、これまで幾度となく現地を訪れている、知る人ぞ知るニューヨーク通だ。 「『NY在住の日本人のための漫才をする』と約束をした人がいるんです。もしかしたらその人は今はもうNYにいないかもしれない。でも、俺がNYで漫才をやったとどこかで知れば、『約束を守ってくれた』と伝えることができると思って」。ようやく今、その《約束》は実現に向かってゆっくり動き出していた。 昨年起きた豪雨災害への思いもある。「まだ《お笑い》を必要とする時期ではないと思っています。岡山出身芸人の次長課長や千鳥、ブルゾンちえみたちとタイミングを図っているところ。西口プロレスはすでに真備町を訪れてくれているので、自分たちも一日でも早い実現を目指しています」、と言いながら、表情は不安げ。「実は、以前の全国ツアーで倉敷と相方の出身地岐阜だけガラガラだった過去があってちょっと…(笑)。」 人生最後の晩餐は「かっぱの名代とんかつ」か「金平の焼き鳥」と決めているほどに地元への深い愛着を抱いている彼だが、岡山の若者たちには「もっと外へ出た方がいい」との思いを抱いている。「岡山の人ってあまり外に出たがらない気がしています。せいぜい大阪止まり。もっと海外や東京に出て、色々な経験や刺激、技術などを岡山に持ち帰ってほしい」。 若くして故郷を飛び出し、多くの出会いと経験、様々な苦労を重ねてきた彼らしい。はにかんだ笑顔には故郷へのエールがたっぷりと込められていた。

ハチミツ二郎/お笑い芸人

岡山県倉敷市生まれ。松田大輔とのお笑いコンビ「東京ダイナマイト」でツッコミを担当。2004年開催の第4回「M-1グランプリ」をきっかけに全国的に知られることとなった。お笑いプロレス団体「西口プロレス」の所属レスラーとしても活躍、メキシコにてプロレスラー(ルチャリブレ)のライセンスを習得している。

編集者PLUG

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