LOCAL PRIDE -OKAYAMA-
有森裕子(元プロマラソン選手)

幾多の苦難を乗り越えた末にトップランナーとなり念願の五輪メダルを手に入れた有森さん。競技者人生に幕を引いて10年余りを経て今2020年東京五輪に何を想うのか。その想いを語ってもらった。

わずかに差す光を追い続けた学生時代

故郷に思いをはせるとき、よみがえるのは苦い思い出ばかりだ。何をしてもどんくさく、小学校までは何ひとつ自信のもてるものがなかった。中学校では「誰も手を挙げる人がいないから」と出場した800m走でまさかの3連覇を果たしたが、その後進学したスポーツ強豪高では素人同然。陸上部入部を申し入れると「実績のない者はいらない」と一蹴され、3カ月間顧問を追いかけ回してようやく入部を認められる有り様だった。そんな有森さんが、公式競技会で数々の実績を残してきたトップ選手たちに太刀打ちできるはずもない。高校時代に唯一残した実績といえば、全国都道府県対抗女子駅伝大会での3年連続補欠登録のみ。今までもこれからも誰に塗り替えられることもない、大会史上唯一の《独占》記録だ。 日体大に進学してからも、さして状況は変わらなかった。先天性の股関節脱臼のせいで怪我が絶えず、鳴かず飛ばずの日々。救いだったのは、競技者として成績を残す以外にも目標があったことだろう。体育教員になることは、高校時代から抱き続けたもうひとつの夢。教員免許取得を目指して講義にも実習にもまじめに出席した有森さんのもとで、その夢は着実に実りはじめていた。 風向きが変わったのは、そんな最中の教育実習期間中。気分転換のつもりで出場した記録会で、有森さんは思いもよらず自己ベストに次ぐ好タイムで優勝。続く全日本大学女子駅伝でも、見事区間賞に輝いた。「自分はまだ走れる。もっと上を目指せる」ーーそう思いはじめたランナーが、競技人生から潔く身を引けるわけがない。教員志望から一転、有森さんは実業団へと進むことを決意した。

2つの五輪メダル

その後の活躍は周知の通り。23歳で初マラソン出場を果たした有森さんは、1991年の大阪国際女子マラソンで首位を競り合う好走を見せ、日本人トップの2位でゴール。当時の日本女子マラソン最高記録を樹立すると、同年の世界陸上でも4位に食い込んだ。その後怪我による棄権が続いたが、1992年、それまでの経験と実績が買われて五輪代表に選出。バルセロナで銀メダル、続くアトランタでは銅メダルを獲得して日本中を湧かせ、名実ともに世界のトップランナーへと駆け上がった。 それから10年余りを経て2007年に第一線を退いた有森さんだが、その後も選手のマネジメントやスポーツイベントを通じてスポーツ振興に寄与。2016年の東京オリンピック招致活動の際はアンバサダーのひとりとしてロビー活動に奔走し、招致決定の重要な役割を担った。

東京招致は何のためか

けれど、その東京オリンピックを一年後に控えた今、有森さんの心は軽やかではない。新国立競技場の白紙化にはじまり、公式エンブレム盗用疑惑や無償ボランティア問題、挙句の果てにはJOC会長の贈賄疑惑まで次から次へと問題が明るみに。五輪の精神は揺らぎ続けている。「スポーツを通じて日本をひとつにしたい」という純粋な思いの裏で、「このままで本当に真の感動を呼び起すことができるのか」という不安がよぎるのも無理はない。「運営の問題だけではありません。日本ではここ数年自然災害が相次いでいて、東日本大震災以降も熊本地震や大阪北部地震、北海道胆振東部地震と、各地で大きな被害が出ています。五輪開催は喜ばしいことではありますが、華やかな祭典も選手の活躍も幸せな暮らしがあってこそ。復興を置き去りにしたままでは、せっかくの五輪も単なるお祭り騒ぎで終わってしまいます」。 中でもことさら思いを寄せるのは昨夏の西日本豪雨で甚大な被害を被った故郷・岡山だ。2階建ての家々が濁水にすっぽりと浸かったあの恐ろしい光景は、今も深い痛みを伴って脳裏に蘇る。「あれから8カ月以上が経ちすっかり平穏な日常を取り戻したと思っている人も多いけど、県内でも最も深刻な被害を受けた倉敷市真備町では、今も200人近い人たちが仮設生活を余儀なくされています。水が引き町の機能が復活しても、被災した住宅や個人店の再建はまだちっとも進んでいない。なぜだか分かります? 五輪景気に沸く都市部に地方という地方から業者が集まって、肝心の被災地に職人が残っていないんですよ。壊れた家や店を直そうと工務店に相談しても、『職人がいないから』って軒並み断られてしまう。復興と五輪は別の問題だって言う人もいるけど、つながってるんですよ、実際。その現実を見ずして五輪に沸き立つ世の中を、どこか冷めた目で見てしまう自分がいる。何のための祭典なのか、華やかな舞台の裏側で何が起こっているのか、私たちはもっと考えないと」。

スポーツの力を信じて

バルセロナの後、メダルを手にした彼女を取り巻く環境は大きく変わった。メディアにもてはやされ、活躍の場が開かれる一方で、内部の混沌の沼に足を取られ、走る喜びを見失ってしまったこともある。それでも倒れれば立ち上がり、躓いても前を向き続けてきたのは、苦難のときこそ沿道の声援が力となり、その力がまだ見ぬ《絶景》へと導いてくれることを知っているからにほかならない。「ありちゃんなぁ、しにゃあせんけえ(岡山の方言で死にはしないから)」。先の見えない高校陸上時代、恩師からかけられたこの言葉を、有森さんは今日も胸の中でつぶやいている。

ありもり・ゆうこ

1966年、岡山県生まれ。日本体育大学卒業後、(株)リクルート入社。バルセロナ・アトランタオリンピックでそれぞれ銀メダル、銅メダルを獲得し、2007年の東京マラソンでプロマラソンランナーを引退。2010年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞。現在はNPO法人「ハート・オブ・ゴールド」代表理事、アスリートのマネジメントやスポーツビジネスを手がける「株式会社RIGHTS.」特別顧問をはじめ、日本陸上競技連盟理事やスペシャルオリンピックス日本理事長などの要職を務める。

編集者PLUG

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