#6. INTERVIEW
藤田文香 公益財団法人 大原芸術財団 事業部部長
#新しいキャッチフレーズ
「芸術の国 岡山」
「晴れ」でも「フルーツ」でもなく、
大原が支え続けた《芸術》にフォーカス!
岡山県民と美術館の関係はどうあるべきか。
岡山の美術界を創成したキーパーソンたち
開館は1930年、今年で創立95周年を迎える大原美術館。岡山の芸術や文化を語る上で揺るぎない存在感を示してきた、「倉敷といえば」な場所の一つである。大原美術館は、かつて江戸幕府の直轄地として栄えた倉敷美観地区に、日本初の西洋美術を中心とした私立美術館として誕生した。創設者は、倉敷の水運を活かした紡績業で財を成した実業家、大原家7代目当主の大原孫三郎。エル・グレコ、ゴーギャン、モネなど、西洋の名作を一堂に鑑賞できる、戦前の日本では唯一の場所だった。これらを収集したのは、孫三郎の友人で洋画家の児島虎次郎。「日本の芸術界を発展させたい」という信念に共感した孫三郎は、虎次郎の渡航を経済的に支援した。3度に渡るヨーロッパ渡航で100点以上の西洋画や中国・エジプトの美術品を収集。虎次郎は3度目の渡航で、現在も美術館のシンボルとして知られるエル・グレコの《受胎告知》やゴーギャンの作品を持ち帰っている。こうして倉敷に集められたモネやマティスの作品を市内の小学校で公開したところ、全国から人が押し寄せ、倉敷駅から会場まで長蛇の列ができたという。その後、虎次郎は1929年に47歳の若さで他界。孫三郎は友人の死を悼み、虎次郎の作品やコレクションを公開する場として大原美術館を設立した。孫三郎の跡を継いだのは、長男の總一郎。「美術館は単なる陳列場であるのではなく、生きて成長するもの」という信念のもと、展示室を拡充し美術館のコレクションを多角的に広げていった。孫三郎と虎次郎が収集・展示を進めていた西洋近代絵画はもちろん、ヨーロッパやアメリカの新しい時代を生きる作家たちの作品も加えられていったのである。また、近代日本の絵画のほか、中国の石仏、民藝の品なども取り入れ、それらはすべて「新たな価値を創造しようとする作品」であるという視点で選び抜かれたものだ。このように作品の幅が広がっても、孫三郎の時代から現在まで変わらないことがある。それは、土地に宿る歴史やストーリーを大切にすることだ。設立趣意書にも書かれている「ここにあることに意義があると思って設立します」の言葉の通り、大原美術館は倉敷市民のシビックプライドを象徴する場所であり続けている。そんな大原美術館の「今」を支えるキーパーソンのひとりが、大原芸術財団で事業部部長を務める、藤田文香氏。勤続29年、長年にわたり大原美術館の現場をとりまとめてきた人物だ。「美術を専門に学んできたわけではないので、あまり深くは語れないけれど、その周辺のことは話せますよ」と謙遜するが、大原美術館への愛情と責任感は誰よりも強い。「美術館で働いているならではの出会いがたくさんありました。それが、今の私をつくっています」。
「芸術」を冠した再スタート
「アーティストとの直接的な出会いもそうですが、やっぱり高階秀爾と仕事ができた経験は大きいです。21年間、彼と一緒に働く中で得た学びと思い出は、私の人生の宝物です」と藤田氏は追想する。高階氏は2002年から2023年まで大原美術館の館長を務めた人物。美術史学者として、日本の西洋美術史研究を牽引してきた業界の超大物でもある。惜しまれながらも昨年10月に92歳で他界。藤田氏は高階氏の就任当時、「どれだけ大物なのか全然知らなかったんです(笑)。だから、私は馴れ馴れしく話しかけてしまって。『そんな接し方はお前にしかできない』と周りから言われることも。でも、高階さんはいつもニコニコ微笑みながらお話してくださいました。権威を振りかざすようなことはしないし、ダジャレもよく言う面白い方でした」。そんな高階氏は、これからの大原美術館の指針となるであろう功績をいくつも残している。その中のひとつが、昨年4月、公益財団法人大原美術館と財団法人倉敷考古館を合併し、「公益財団法人大原芸術財団」を設立したことだ。ひとつの財団が2つの施設を運営する形で大規模な組織改正が行われ、研究機関としての体制も整えることを目的としている。高階氏は財団の代表理事を務めた。設立当初、財団の名前に〈芸術〉を入れたことに対して、「考古物は芸術ではなく資料だ」という意見もあったという。しかし、高階氏は「歴史のなかで人が関わって形作られている以上、それは等しく芸術である」と断言し、大原芸術財団として新たなスタートを切った。藤田氏は、この歴史的な転換点に立ち会ったことで、大原がこれから果たしていく役割と、岡山の「芸術」の在り方について考えたという。
岡山を芸術のロールモデルに
「芸術研究とは人間研究である」。これは、大原芸術財団が掲げる基本理念の一つだ。美術品を眺めるだけでは、芸術を本質的に理解したことにはならない。時代背景や地域性、画材や技法、作家の人生まで踏み込んでこそ、初めて深い理解にたどり着ける。「人間とは何か」を知ることが芸術だとも言えるかも知れない。藤田氏は、そんな芸術を取り巻く人間の力を結集することで、美術館の在り方をアップデートしていきたいと考えている。「芸術は、アーティストと鑑賞者だけで完結することはできません。キュレーター、運搬業者やスタッフ、絵画修復士と様々な分野のプロが関わっています。仲間である彼ら彼女らとの協働を活かした、新たな事業モデルの可能性を探っています」。藤田氏が考えてくれた岡山の新しいキャッチフレーズは「芸術の国 岡山」。このフレーズの真意は、「仕組み」づくりにあるのだという。「岡山の文化芸術をさらに発展、継続させていくためには『岡山モデル』と呼ばれるような新しい仕組みづくりが必要だと感じています。施設の恒久的な運営方法から、たくさんの方に何度も足を運んでいただけるプロモーションや企画など、他の地域が真似したくなるような仕組みを仲間と生み出すこと。それができれば、岡山がもっと芸術の中心地になれると思うんです」。
「ある」だけでなく「親しむ」こと
「芸術」はもっと身近にある
美術館をもっと身近に。『俺のゴーギャンに会いに行く』くらいの感覚で
気軽に訪れてほしい。
みんなのマイミュージアム
昨年、県北を舞台に初開催された「森の芸術祭 晴れの国・岡山」や今年3年ぶりに開催される「瀬戸内国際芸術祭」「岡山芸術交流」など、岡山県では現代アートを軸とした大型イベントが続いている。藤田氏は、全国で次々に生まれる芸術祭に「新しい取り組みは素晴らしいことだと思っています」と、昨今の潮流に前向きな意見を寄せる。「アートは地域を盛り上げる手段としても有効に働いているように思います。自治体も可能性を感じているから、そこにお金をかけていますよね。ほかにも著名人が若手アーティストを支援したり、メディアでたびたび特集されたりと、アート全般に対する社会の受け取り方はずいぶんと変化しました。そのおかげで芸術が身近になり、親しむ方は確実に増えたといえます。一方で、大原美術館の認知度はまだまだ低い。『倉敷といえば大原美術館』と言ってくださる方も多いですが、それが実感です。美術館は小難しいというイメージが根強いのかも知れません」。アートに対するハードルは下がったものの、美術館としては特に若い世代との間に壁を感じているという藤田氏。「当館で展示している作品は館の所有物ではなく、あくまでも《お預かりしている人類の宝》です。実物をぜひその目で見てもらいたい。推し活ではないですが、『俺のゴーギャンに会いに行く』くらいの感覚で、気軽に足を運んでほしいと思っています」。あらゆる人にもっと気軽に芸術に親しんで欲しいという思いは、大原美術館の「みんなのマイミュージアム」というスローガンにも表れている。これは創立90年を迎えた際に発表されたフレーズだ。このスローガンを考案したのは、コロナ禍で休館を余儀なくされたときだった。民間の美術館である以上、収入の8割は入館料に頼っており、コロナ禍での136日間の長期休館は大きな打撃となった。運営を続けるには自助努力だけでは限界がある。これから先も美術館を守り、未来に受け継ぐという役割を果たすためには、同じ意思をもつ人たちとの関係性を深め、ここに想いを抱く人たちと支えていく必要がある。改めて「誰のための美術館なのか」を考え直し、すべての人々が「私の大原美術館だ」と思えるような存在にならなければいけない。易しいフレーズの中には、そんな決意があった。
親しまれる身近な美術館
大原美術館は倉敷美観地区にあることから、「あそこは観光スポットで自分たちが行く場所ではない」という印象を持っている岡山県民も少なくない。しかし「みんなのマイミュージアム」の「みんな」には観光客だけでなく、当然私たち県民も含まれている。「コロナ禍をきっかけに、身近な観光地に目を向ける人が増えたのではないでしょうか。倉敷美観地区には全国から年間300万人もの観光客が訪れていますが、大原美術館を訪れる人の構成も随分と変化し、県民の割合がぐんと増えたんです」。その傾向は現在も続いているそうだ。「あの頃は皆さんなかなか遠出がしづらかったので、近場のことを色々と調べられたと聞きます。岡山県民の中には、大原美術館という名前は知っているけど、実は一度も行ったことがないという方が少なくないんですよ。そういう方々に足を運んでいただけるきっかけにはなりました」。苦しい記憶として残っているコロナ禍だが、マイクロツーリズムの影響で地元の訪れるべき場所として再認識される契機になった。この時の来館をきっかけに、何度も通うようになった地元のファンもいるのだとか。
あらゆる世代の岡山県民が美術館を訪れ、もっと日常的に芸術に触れる機会を増やすことが、藤田氏の考える「芸術の国 岡山」の実現には欠かせない。近年、大原美術館では地域密着型のワークショップや企画展を積極的に開催しており、家族連れや若い世代を中心に新たな来館者が増加している。地域にとっての芸術はそこに「ある」だけでなく、「親しむ」ことで初めてその真価を発揮するのではないだろうか。国内外から多くの観光客を呼び込んできた大原美術館は、これまで以上に地元へ寄り添うことで、「観光スポット」ではない美術館本来の在り方を示そうとしている。
「ありのまま」特別なことはしない、
大原美術館の変わらない「らしさ」を守る
芸術の扉を開き続ける
5年後に控えた100周年に向けて、大原美術館の今後の展望と課題を訊いた。まずは、ハードとソフトの両面でアップデートが必要だという。「95年も経つ建物なので、設備にも物理的な寿命があちらこちらにきています。老朽化は早急な対策が必要ですね。それからDX化も進めていきたいと考えています。ただ、何でもかんでもデジタル技術を取り入れれば良いというわけでもなく。大切なのは、誰のためのアップデートかという視点。来館者の体験を豊かにし、働く職員にも寄り添った本質的な変革を目指しています」。今年4月には倉敷美観地区の中にある大原美術館から徒歩1分の場所に『児島虎次郎記念館』がグランドオープンするという注目のニュースもある。元々は『倉敷アイビースクエア』内にあったが、老朽化により2017年に閉館。かつての児島虎次郎記念館を再現すべく、再生プロジェクトがスタートしていた。建物は1992年に孫三郎が第一合同銀行(現・中国銀行)倉敷支店として建設し、大原美術館の本館を手がけた薬師寺主計(かずえ)が設計したもの。近年は中国銀行倉敷本町出張所として営業していたが、2016年に大原美術館に寄贈された。新たな美術館として再生された館内では、日本国内だけでなく、フランスでも高い評価を受けた虎次郎の作品をはじめ、彼が収集したエジプト・西アジアの古美術が展示される。美術教育にも力を入れている大原芸術財団では、児島虎次郎記念館内にレクチャールームを設けることでワークショップの充実も図る予定だ。美観地区本町通りの中心部にあることから、街の新たなにぎわいづくりとしても期待されている。「今年は瀬戸内国際芸術祭や大阪万博もあり、その影響もあって国内外からの訪問者が増えると思います。この機会に『大原美術館はここだよ』と世界に存在感を示したいですね。もっともっと大原美術館を知っていただける努力をしなければいけないと思っています。訪れてもらえれば、必ず当館の良さを実感していただけるはずですから」と藤田氏。「館内には教科書でおなじみの作品も多く、美術だけでなく音楽や社会の教科書にも登場する作品が展示されています。一つでも知っている作品を見つければ、大原美術館に親しみを感じてもらえるはず。美術に詳しい方も、そうでない方にも心に残る鑑賞体験をしていただきたい。100周年に向けて、これからも地道に運営を続けていきます」。今年95周年という節目ではあるが、特別なイベントなどは予定していないという。浮き足立つことなく、日常の中で芸術の扉を開け続けることが、大原美術館が大切にしてきた「らしさ」でもあるのだろう。
「あなた」の作品との出会い
最後に、数ある大原美術館の収蔵品の中から藤田氏が好きな作品を教えてもらった。「ギュスターヴ・モローの『雅歌』という作品です。聖書の一節を描いているのですが、小さな一枚の絵画のなかにものすごい情報量が詰まっているのに、破綻せず成立しているところに凄みを感じます。そして、絵画としての美しさも兼ね備えている。水彩画というのも驚き、圧巻の作品です」。
芸術やアートが何であるかという問いには、いろんな答え方があると思う。ただ、はっきりしているのは、それが多くの人にとって、知れば知るほどその人の人生を豊かなものにしてくれるものであるということだ。藤田氏の考えてくれたキャッチフレーズ「芸術の国 岡山」を言い換えれば、それは岡山県民のウェルビーイングを目指す言葉にもなるのかも知れない。そう考えると、地元の美術館やアートに携わっている人たちへの向き合い方にも新たな意味が生まれるだろう。日本では、「文化は経済の後に従う」がよく見受けられる現象ではあるが、時に「文化が経済をリードする」こともあるのだから。さっそく、大原美術館に足を運んでみてはいかがだろうか。しばらく足が遠のいていた人も、初めて訪れる人も、藤田氏がいう《人類の宝》の中から、「あなたの作品」を見つけに行こう。
PROFILE
○藤田文香
公益財団法人 大原芸術財団 事業部部長。1996年より大原美術館勤務。入館券販売やミュージアムグッズ販売スタッフとして勤めながら大原美術館のホームページの立ち上げをきっかけに2000年より16年間広報を担当。展覧会やイベント情報の発信のほか、2003年から2017年まで地元コミュニティラジオ F Mくらしきの「あ〜と@オオハラ」 パーソナリティを務めた。その後館内オペレーションのリーダー、ミュージアムショップ店長等を経て2024年4月より現職。
HP.https://www.ohara.or.jp/
INSTAGRAM.ohara_museum
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