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社研部_YUKIO IOKIBE
20 November 2024
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JOURNALISM × REPORTAGE

2004年創刊時から続く不定期連載。政治家へのインタビュー、社会問題に関する取材、時事コラムを掲載する社会問題研究部、略して「社研部」。

Photography: Shinichiro Uchida, Interview&Text:YAMAMON (PLUG MAGAZINE), Design:RADIO DESIGN




 映画『はりぼて』は、富山県のローカルテレビ局が地方政治の不正に挑み「政務活動費を巡る調査報道」で市議14人をドミノ辞職に追い込んだドキュメンタリーです。初めてこの映画を観た後、私はすぐにプラグマガジン編集部の仲間に勧めました。触発されて昂った感情を、すぐにでも共有したかったからでしょう。思った通り、観終えた仲間たちも映画から同じような衝撃を受けたようです。『はりぼて』は、私たちにとって、「君たちは何をしているんだ」と頭を叩かれ、目が覚めるような刺激に満ちたものでした。また、地方メディアに携わる人たちに多くの示唆を与えてくれるだけでなく観る人に「地方メディアの在り方」と「自らはどうか」を考えさせてくれる作品であると思います。
今回の社研部では、この映画の監督である五百旗頭幸男氏を招聘して公開インタビューを行いました。石川県の知事選挙に見る権力移譲劇、ムスリム一家の日常、車で移動しながら生活や仕事をするバンライファー家族の姿から、理想や自由をめぐる葛藤と矛盾を浮かび上がらせた『裸のムラ』、現実を省みず推し進められた 「立山黒部の世界ブランド化構想」 の検証取材を重ね、計画見直しの契機となった『沈黙の山』など、五百旗頭さんの手がけるポリティック・ドキュメンタリーにはどれも「本質がどこにあるか」という純粋な眼差しと忖度のない毅然とした態度があります。なぜ保守的な地域で組織に属しながらこうした作品をつくれるのか。地元政財界と一体化してしまった地方メディアに未来はあるのか。五百旗頭氏への取材から、地元媒体として21年目に向かう自分たちのこれからを考えました。



3時間の僅か数十秒、「本質」を繋ぐ作品。
地方メディアの視点から 社会の縮図を描く

― 数年前に、香川1区旧民主党系の候補が保守系候補者と戦うさまを撮影したドキュメンタリー映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」が大ヒットしました。私は岡山のシネマクレール丸の内で鑑賞したのですが、監督の大島新さんが舞台あいさつで「私はプロパガンダ映画を作ったつもりはない」と強めに話されていたのを印象的に覚えています。数々の賞を受賞された五百旗頭さんのドキュメンタリー映画「はりぼて」は、自民党会派である富山市議の不正を追及した作品ですが、メディア報道、政治に関わる作品における「公平・中立」とはどのようにあるべきだとお考えですか。


「ドキュメンタリーやテレビ報道において、厳密な「公平・中立」という のは難しいでしょうね。その最たるものが今の日本のテレビの選挙報道です。量的な放送時間の公平性に終始して、国民が必要とする情報が選挙期間中にほとんど報道されていない。果たしてそれが、本当の「公平性」と言えるのでしょうか。ドキュメンタリーに関していえば、中立といっても結局ひとりの人間が主観に基づいて取材を行い、その主観に基づいて編集するわけですから客観性を担保することは厳密には無理だと考えています」


― 制作者の意図がどうであれ、誰かひとりの政治家もしくは一政党に強烈にスポットを当てるとなると、結果的にプロパガンダ作品だと受け取られるリスクが高まってしまうように思います。


「『なぜ君は総理大臣になれないのか』が一方的にひとりの候補者を取 り上げているから不公平なのかというと、そういう話ではないと思います。おそらく大島監督は、彼をあの映画で取り上げることによって、この国の選挙や民主主義の現状を描こうとしたと思うんです。大島さんの作品を通して、どれだけの人が日本社会を直視したか、もしくは自分たちも含めて日本の民主主義をどこまで感じさせることができるかに臨まれたのではないかという気がします。同じ映画の作り手として、決してあの映画がプロパガンダだとは思いません」



― しかし、結果として映画で取り上げられた候補者はプレゼンスを高めました。小選挙区での勝利や党内での重用のされ方など、あの映画の公開を境に大きく彼の潮目が変わったように思います。これは、題材を決めた時点で起こりうることですよね。



「僕たちは、ドキュメンタリーを「作品」という位置付けで制作しています。作品は鑑賞するものであり、時代の風雪に耐えるもの。消費されて役目を終えてしまう「コンテンツ」とは違います。だからこそ、ドキュメンタリーには大義名分のように客観性とか公平・中立さが必要だと思われがちですが、それは欺瞞に満ちた押し付けではないでしょうか。だからといって何をしても良いわけではなく「公正」であることは大切です。取材対象としっかり向き合って世の中の本質をちゃんと捉えているかどうか。作品を観た人が、自分ごとに置き換えて何かを感じられるか。そうしたものが公正さであると思います」







― 五百旗頭さんの作品では誰ひとり「ヒーロー」として描かれていませんが、私はそれこそ公正であるように感じています。では、ドキュメンタリー作品やメディアの役割は、あくまで公正を期した「視点の提示」に留めるべきだと考えられますか。


「留めるべきではないと思っています。しかし、僕の作品の中で明確に「こうあるべきだ」というようなことをはっきりとは言いません。作り手として、それぞれのカットに意図を持って編集しているのですが、受け留め方は観る人に委ねています。それを「この作品はこういうものです」 と明確にしてしまった時点で、作品の奥行きも深みも霧散してしまう。往々にして、ニュースやドキュメンタリー番組は答えを単純明快にしてしまうから、観た人はすっきりとします。でも、その先がない。作品を通してもっと向き合い考えてもらいたいので、「視点の提示」に加えてさらに何かを感じてもらえる表現は必要だと考えています。作品から、「たぶん五百旗頭はこんなことを考えているんだろうな」というニュアンスは感じていただけるのではないでしょうか」



想定外に表出する 本質を捉える


― 石川県を舞台に現職知事の失態や政権交代を追いつつ市井の人の生活も映し出した「裸のムラ」では、ムスリムや自由に生きようとするバンライファーの方々が登場しています。被写体である男性から「五百旗頭さん、ちょっと演出が入ってるんじゃないの」と言われるシーンがありました。ドキュメンタリーでも演出することはあるのですか。


「皆さんドキュメンタリーはありのままを描いていると誤解しがちですが、カメラを持った人がその場に入って、ディレクターもいて、さらに編集で切り取っているわけだから、ありのままのはずがありません。リアリティを出すために誰かの視点で切り取った現実であり、あくまで誰かが描き出したものです。 「こういう発言をしてください」と頼む「やらせ」はあってはいけませんが、作り手の思惑に沿った演出はあって然るべきだと思います」


― インタビューを拝見すると、「ドキュメンタリーでは、被写体の姿にこそ本質が映る」としばしば口にされています。本質を引き出すために演出を入れることがありますか?あるとすればどんな演出を入れるのでしょうか。


「こういう演出で本質を描き出そうと画策はしていませんが、やっぱり予期せぬ場面で本質が表れることが多いですね。それが観る人にとって響くシーンや言葉となることも多い。そういう「想定外」を繋ぎ合わせたものが結果的に作品になって います。 例えばカメラマンに 「もうワンショットいるんだけど、伝わるものが少なすぎるので、その周辺も含めて撮ってください」とお願いすることがあります。周囲の人たちの動きや目線、振る舞いが入ると見えてくるものがあるんです」


― 確かに、それも撮り方の演出ですね。


「これはてきめんですね。どんな作品でも少し引くことによって浮かび上がってくるものがあります。しかもあまり動かさないのがコツ。一緒に撮るカメラマンに我慢して見続けてもらっていると、映り込んでくるんです。実は、次の映画である会議を取材したのですが、3時間ずっとカメラを回しっぱなしでした(笑)。使うのは長くても1分ほどでしょうからカメラマンはうんざりしているかもしれませんね。だけど、予期せぬことを撮るにはこうした根気が必要だと思います」


カメラマンに何か差し入れしないと気まずくなりそうですね(笑)。そういえば「裸のムラ」では、知事の水 差しを丁寧に拭き取る女性職員の姿が印象的でした。


「はい。あのシーンは僕の考え方を理解してくれているカメラマンの和田さんが自主的に撮ってくれたんです。いつもはそんな早くに来るタイプでないのにその日は議会が始まる1時間前に入ってくれて、「面白いもの撮れたよ」って」


― カメラマンとの意思疎通や信頼関係が重要なんですね。


「よく、いろいろとカメラに指示しているんですかと聞かれますが、僕がどういうものを狙っていて、どういうふうに形にするかというのを理解してくれているので指示はたまに出すくらいです。そこは信頼関係ですね。カメラマンの感性とセンス、力量に委ねている部分は大きいです。」



先に売ることを考えると 失うものが多い


― 五百旗頭さんはかつて放送局でCM枠をセールスする営業職を経験されています。番組や映画作品を作る上で、「作品(表現・ジャーナリズ ム)」と「商品(マネジメント・マーチャンダイズ)」のバランスをどう考えて制作されているのですか。


「ヒットさせようとか、売らなければならないみたいな意識では一切作っていません。テレビ番組では「アバン」といって、放送開始から数分の間に、番組の概要をテンポ良くつなぐ手法があります。視聴者の目を離さない、視聴率アップのためにやっているものですが、僕はそれが大嫌いで。やはり通しで一つの作品にしたいので、売るための手法は用いたくありません」


― 「売る」ためのテクニックは使わないということですね。


「テレビ番組の「はりぼて」を作った頃から、テクニックを使わずとも視聴者を惹きつけられるものにしたいという思いはありました。過剰なナレーションも、自分が作るドキュメンタリーに関してはできるだけ排除しています。映像本来の力で引きつけて鑑賞を楽しんでいただく。良い作品をつくり、結果的にそれが収益につながることをイメージしています」


― まさに作品と商品の側面が合致したのが映画「はりぼて」ですね。


「『はりぼて』は上手くいった例の一つだとは思いますが、マーチャンダイズとしての性格を考えるならあそこまで市議会議員の方々を追求している時点で本来は厳しいわけで(笑)。本質を捉えられるか、世の中の縮図として描けるかをまず意識しているので、結果的に商品としてそれなりに価値を作ることができればいい。マーチャンダイズを先に考えた時点で、いろんなものを失ってしまうのではないかと思います。ただ、本音で言えば「裸のムラ」は「はりぼて」のようにはいかなかったんです。皆さんの感想を聞くと「はりぼて」は勧善懲悪的にすっきりしていただけたようですが「裸のムラ」はもうわからない人にはちんぷんかんぷんだと。すごくはまった人と、わかりにくいという人に二極化しました。だからといって次はわかりやすいものを作ろうとは考えません。わかりやすいものが駄目なわけではないですが、題材がわかりにくくても、いかに引きつけられるかを考えています」






何のために この仕事をするのか?


― 地域の権力に対して批判的にも捉えられる作品を作るにあたって、圧力や周囲の目に屈しないといった特別な覚悟は必要でしたか。


「番組版を作った二〇一六年の時点でそういうことを意識したかというと、一切ありません。その頃のチューリップテレビの報道部門はすごく健全で、「間違ったことは普通に報道するのが当たり前」という上司のもとで、僕たち現場もそう考えて形にしたというだけです。ただ、遠回しに人を介してチクリと言ってきた方はいましたけど、露骨な圧力みたいなものはなかったですね」


― とはいえ、岡山と同じく富山や石川のような保守的な土地柄で、強固な権力に抗うには相当の胆力が必要だったのではないでしょうか。組織や同調圧力の強い地域の中で、「是々非々」のジャーナリズムを貫くには強いメンタルを要すると実感しています。「王様は裸だ」と言うのは、普通の人にとって、生活への不安や周囲の目に耐えられる精神力、捨て身の覚悟なしにはできないことになっているのではないでしょうか。

「捨て身にならないと駄目でしょうか。僕の場合、「権力に立ち向かうんだ」といった特別な正義感も、不安や恐怖心みたいなのもありませんでした。ただ「自分は何のためにこの仕事をやっているのか」への回帰は必要でしたね。取材の中でひやひやすることもありましたけど、リスクを取らないことの方が、その後に自分が作る成果物、作品の出来においてはリスクになってしまう。リスクを取らない人間が作ったものを見た人は、それで何かを感じることができるのだろうかと。とはいえ、「はりぼて」の映画が全国公開されてから、知人がどことなく素っ気なくなったみたいなのはちらほらありました(笑)。でも、それで離れるぐらいならそういう付き合いだったなと逆にわかっていい」





時間をかけ、 腰を据えて見続ける


― 著書「自壊するメディア」の中で、地方のジャーナリズムを機能不全に陥れる原因は、権力者の顔色をうかがう「経営者」にあるのではないかというご指摘がありました。


「地元の決裁権を持っている経営者のリテラシーや人間性に委ねられている部分が大きく、それらをすぐに変える方法がないのだと思います。政治を取り巻く問題でいうと、富山の例では不正を働いた議員たちは選出された地域ではすごく信頼されています。不正を働いたけれど自分たちの地域にいろいろ還元してくれている。だから支持はするんですよ。自分たちさえよければいい。議員も、不正を働いたとしても地域の住民たちは自分を支持してくれるという甘えがある。そして、メディア側にも問題があります。どんどん担当者を変えるから長いスパンで一つの問題や事象を追いかけるということが組織の構造上なかなかできない。その地域全体を俯瞰する目が決定的に欠けているんですよ」


― プラグマガジンは今年20周年を迎えました。20年、岡山という街に向き合う中で、地域の成長や健全さを阻害する人や構造上の問題を目の当たりにしています。しかし、それらを社会に提起することは、やはり容易ではありません。当誌はマスメディアや報道機関でもなく、小さな独立系パブリッシャーという立ち位置ではありますが、地域経済と地縁社会の中で生かされている媒体です。情けないですが、インディペンデントにはなりきれない。21年目からはもう少し踏み込んだ発信もしていきたいなと考えてはいるのですが・・・。


「反発や非難されそうなことでも、やってみたら意外と「この程度か」ということが多くありませんか。過剰に意識して押し殺すよりも、やってみるべきだと思います。ただし、ドキュメンタリーを作る上でも、自己防衛は重要です。たとえ誰かが圧力をかけてきても、それを記事や映像化したらいい。もし踏み留まったら、相手は「圧力をかければ止まるんだ」と思ってしまう。でも、そこさえもつまびらかにされたら相手は「本当にまずい」と思うはずです」


― 「この程度か」で終わればいいんですけど(笑)。何かを闇雲に糾弾したり、誰かを吊し上げてやろうとは考えていないのですが、おかしいと思うことに対しては怯まず提起できるように努めたいですね。五百旗頭さんの作品を観て「自分も臆せずやらなければ」と感じたメディアの人はかなり多いと思います。ご自身も、東海テレビのドキュメンタリーを観たことで刺激を受けたそうですね。


「 僕がまだ30代の頃、10年以上前から東海テレビはかなり踏み込んだドキュメンタリーを作っていました。「 ヤクザと憲法 」など全国的に知られた作品も多い。それぞれの作品で世間がある一方からしか見ていないことを逆から見て実に鮮やかに描いています。その頃は僕も「これはやっちゃ駄目だろう」とか「このラインで抑えておこう」といった意識で仕事をしていたところがあったのですが、東海テレビの番組を見たら「そんな悩みなんてちっぽけだな」と気付かされて。「実現できそうにない」をやりきってしまう仕事ぶりには影響を受けました 」



― 映画「はりぼて」について市長や市議会だけが『はりぼて』ではなく、「政治」「市民」「メディア」、映画の作り手も含めてすべて『はりぼて』であると言及されています。「はりぼて」以前と以後で、富山市民の方たちにはどういった変化があったと感じていますか。



「 僕らが 「はりぼて」を世に出したことで何か劇的に変わったかというと、それはないですね。ドラスティックな変化は起こっていません。それでも、保守分裂の知事選が起こったり第二の都市高岡でも保守分裂の市長選が起こったり、これまで起こらなかったようなことが起こっているのは事実で幾許かの影響を与えた部分はあると思います。ただし、僕は世直しをしようといった気持ちでこの作品を作ったわけではありません。それこそプロパガンダ映画になってしまうので、大きなムーブメントなど求めていない。何が『はりぼて』で、何が『本質』かを各々が考えてもらえるきっかけにしていただけたようには思います 」

権威主義への反骨は モチベーションたるか


― 五百旗頭さんの作品作りにおけるモチベーションはどこにあるのでしょうか。


「 「おもしろいものを作りたい」という純粋な動機がそのまま力になっています。 作風から誤解されることもありますが、 「世の中にインパクトを与えたい」とか「革命を起こしたい」みたいな気持ちは一切ありません。あるとすれば、大メディアに対する嫌悪感みたいものでしょうか。「地方でもこれだけできると証明したい」という反骨精神みたいなものが、 僕の大きなモチベーションの一つになっているのは間違いありません」


― 私たちのプラグマガジンにとっても、大手出版社や海外のクリエイター系マガジンに対する「反骨精神」は一つのモチベーションですが、それは「リスペクト」や「憧れ」が表裏一体になったものでもあります。五百旗頭さんの大メディアに対する「嫌悪感」とはどういうものでしょうか。


「 「自分は強いんだ。力を持っているんだ」. と思った瞬間、自分が作る作品は力を失ってしまいます。くだらないプライドを振りかざしたり虚勢を張ったりすることすらできない弱い立場で取材と制作活動をしてきたことで身に付けたものをこれからも強みにし続けていきたい。それは、権威主義に陥っている大きなメディアには決してできないことだと思うからです 」


― 五百旗頭さんの作品の被写体が、批判の対象になるかもしれない場合、どういう心持ちでカメラを回していらっしゃいますか?


「 心がけているのは、善悪二元論に落とし込むような撮り方をしないこと。 そして、そのような編集もしないということです。 「はりぼて」 には、気のいいおじさんがいっぱい出てきます。人情味溢れる良い人だけれど、不正はしている。案の定カメラを回すと最初は激昂することもありましたが、しばらくすると受け入れてくれました。そういう人間味ある部分を隠して伝えたくはないなと思って表現しています。人間って多面的ですよね。この人は不正をしたからそれだけの人間だという風には描きたくない。映画を撮ったことで、僕らが彼らの人生を狂わしてしまったのですが 」


― 映画の最後に、チューリップテレビを退社されるシーンがありますね。辞めるきっかけは何だったのですか。


「 辞めた原因は、「沈黙の山」という番組です。当時の富山県知事は、立山黒部の世界ブランド化構想を掲げていました。冬季に閉鎖されるアルペンルートを通年営業化して観光客を呼び込んで、スイスのような山岳リゾート地にしたいという構想です。立山の厳しさを知る地元の山小屋の人や元警察官が計画に猛反発したのですが、既成事実のように話が進みつつありました。取材を始めていくと、どう考えても山小屋の人の言うことが正しいことがわかる。そういう調査のファクトを積み上げて知事に突き付けたところ、知事が激怒して、僕に対して暴言を吐いたのですが、そのシーンが結果的に放送できなくなった。そういう会社にはさすがにいられないなということで、辞めることにしたのが内幕です。自分が辞めることになった社内で何があったかに触れずに「はりぼて」を作るのはアンフェアだという思いが強かったんですが、できなかった。ある意味で自主規制し、忖度をしたわけです 」


― 五百旗頭さんの凄いところは、組織の中の一員としてあれだけの作品を作り続けられているところだと思います。クリエーションとマネジメントの話にも通ずると思いますが、作品至上主義であるならば自由度の高いフリーランスという選択肢もあるのでは。制約があったとしても、これからも組織の中で撮り続けていくお考えですか。


「 ドキュメンタリー映画だけで生きていくのは、日本ではまだまだ現実的に厳しいと思います。普通の劇映画の監督でもそれ一本で食べていける人は数えるほどしかいないと聞きます。フリーになったからといって思い通りの仕事ができるほど生やさしいものではない。でも、地方の組織にいるからこそできることがあると思っています。幸い今の会社は比較的自由度が高いので、石川だけにとどまらず、映画にすれば全国公開できるし、アジアや世界に向けていくこともできなくはない。そういった可能性に賭けているところはあります。ある程度自由度を与えてくれる組織ならば、そこでやる方が可能性があるというのが現時点での僕の認識です」

現状に流されず、「違和感」を突き詰める

― 地元のローカルメディアが地元のことを「褒める」「讃える」ことしか報じない現状があります。五百旗頭さんは富山でスポーツチームの担当をされていた時期に、チームの敗因分析や監督の采配分析をして他局とは全く違うアプローチをされていたそうですね。


「 チームの負けが続いているのに、「今はつらいときだからみんなの力を結集して盛り上げていきましょう」みたいなことをスポーツキャスターが普通に言うじゃないですか。手放しに持ち上げて奉る様子に、「なんか気持ち悪い。何の   宗教だろう?」という純粋な違和感がありました。スポーツだけじゃなく、これは地方政治に関する報道にも共通している気がします。手厳しいことを言うので監督には煙たがられましたが、別に監督に媚びるために仕事をしているわけではないし、選手に好かれるためでもない。「本当の意味でチームを強くすることって何だろう」と考えたときに、メディアが愛を持って改善点を指摘することだと考えました。選手たちには僕の分析が役に立つと喜ばれてもいましたが、監督はやっぱり僕のことが気にくわない様子でしたね(笑)」


― 同じような話で、「地域の活性化」というフレーズさえ出せば「良きこと」のように扱われるのは思考停止の最たる例だと思っています。「活性化」が何を指していて、 どういった状態を志向しているのか、それによって何を得るのか曖昧なことが非常に多い。五百旗頭さんは、地方創生とか地域活性みたいなものに対してはどのような所見をお持ちですか。

「 そうですね 。 そもそも、国が本気で地方創生なんて考えているのかという根本的な疑問があります。地方を本当に甦らせたいのであれば、法人税だって首都圏を高く、地方を低くすればいいじゃないですか。結局、税源の権限を地方に移譲しているわけではないんですよ。補助金を取りに行くことが行政の仕事になっていて、みんな補助金欲しさに群がっていく。国からすれば地方創生をしているつもりなのでしょうが、何も「創生」していないし、むしろ地方をぐちゃぐちゃにしているだけです」





俯瞰的な視点から、独自の作品を


― 五百旗頭さんは、 今後について、 アジアや世界のマーケットを見据えた世界が関心を持つ日本の問題を題材とする作品も構想されています。地方のメディアは「地域密着」を是とする傾向が強いように思いますが、今後の地方メディアはどうあるべきだと思われますか。


「 地方の新聞社やTV局では、今後5年以内につぶれたり再編統合されたりするところが出てくると予想しています。経営が苦しくなれば、目先の利益を求めて手っ取り早く新しい放送外収入を見つけ出そうとするでしょう。生存戦略として否定はしませんが、まだ体力がある内に長期的視点でメディアとしての何かを手掛けていかないと存在意義は無くなってしまいます。僕は石川テレビというローカル局で仕事をしていますが、動画配信を行うプラットフォームから「一緒にドキュメンタリーをやっていきませんか」という誘いもあり、今後実現する可能性もあります。地方にいても、自分たち独自の視点や作り方でドキュメンタリーを撮り続けることが、生き残っていくための突破口になるかもしれません 」


― 世界を視野に入れたコンテンツメーカーを目指すのか、そのまま地域密着型メディアとして存続する道を探るのか。どちらにせよ、何を撮って、どんなものを作るのかが重要ですね。五百旗頭さんは地元政財界と地元メディアが一体化した現状にも警鐘を鳴らされています。これまでの「地域密着」の在り方も問われているのかもしれません。


「 被災地などを取材する際に「地域密着」とか「地域に寄り添って」といった言葉が大義名分のようにいわれますが、僕はむしろローカルに根を張っているからこそ、常に引いた視点で臨むことが大事だと思っています。「地域メディアだから寄り添わなければならない」わけではなくて、どちらかといえば寄り添う必要はない。あまりに寄り添ってしまうと感情に流されるし、本当に捉えるべきものが見えなくなってしまう。次に公開予定の映画は、撮影中に大きなアクシデントが起こり、不条理な災難に見舞われた人たちと近い距離で接しています。シチュエーションとしてはその人たちに気持ちが入ってしまいそうですが、そうはしないのが僕のドキュメンタリー作品です 」


― 五百旗頭さんの次回作の公開、岡山での上映を楽しみにしています。







五百旗頭 幸男
ドキュメンタリー映画監督・TVディレクター

1978年兵庫県生まれ。同志社大学文学部社会学科卒業。2003年チューリップテレビ入社。スポーツ、県警、県政などの担当記者を経て、16年からニュースキャスター。20年3月退社。同年4月石川テレビ入社。ディレクター作品に「異見~米国から見た富山大空襲~」(16/ギャラクシー賞奨励賞・日本民間放送連盟賞優秀賞)、冬季は閉鎖されている立山黒部アルペンルートの通年営業化計画を検証した「沈黙の山」(18/ギャラクシー賞選奨・日本民間放送連盟賞優秀賞)など。17年に富山市議会の政務活動費不正問題を追ったドキュメンタリー番組「はりぼて~腐敗議会と記者たちの攻防~」にて文化庁芸術祭賞優秀賞、放送文化基金賞優秀賞、日本民間放送連盟賞優秀賞などを受賞。20年、同じく富山市議会の不正を追い続けた映画『はりぼて』を砂沢智史とともに監督し劇場公開。全国映連賞、日本映画復興賞などを受賞した。21年、石川テレビ移籍後に発表したドキュメンタリー番組「裸のムラ」にて地方の時代映像祭選奨を受賞。22年、「日本国男村」で日本民間放送連盟賞最優秀賞を受賞。富山市議会政務活動費不正受給問題の取材では菊池寛賞、日本記者クラブ賞特別賞、JCJ賞、ギャラクシー賞大賞を受賞。著書に「自壊するメディア」(講談社、共著)、「富山市議はなぜ14人も辞めたのか~政務活動費の闇を追う~」(岩波書店、共著)。


X / yukioiokibe
はりぼて / https://haribote.ayapro.ne.jp/
裸のムラ /https://www.hadakanomura.jp/



YAMAMON
PLUG MAGAZINE 編集長

岡山県建部町出身。2004年プラグマガジン創刊のため立命館大学を中退し帰岡。政治家、著名人へのインタビュー記事やコラムを連載する企画「社研部」を創刊時よりスタート。地方誌ながら各業界、国内外で活躍する著名ゲストが多数出演。また、数千人を動員する地方としては国内最大級のドレスコードパーティー「プラグナイト」をはじめ様々なイベント企画も手掛ける。2010 年に創設されたオカヤマアワードでは運営事務局長を務めた。

Instagram / yamamon_plug


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