COLUMN
古市大蔵の岡山表町慕情_vol.13
29 April 2024
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岡山のまちづくり・ひとづくりの立役者であり世話人、古市氏による表町を舞台にした考察コラム
Photo: Masaki Saito(O.C photo studio) text: PLUG


古市 大藏
(株)トミヤコーポレーション  代表取締役 会長
1945年岡山市生まれ。世界の一流品を扱う時計・宝石などの専門店を岡山県内に12店舗展開する㈱トミヤコーポレーションの代表取締役会長。岡山商工会議所副会頭のほか様々な地域経済団体でも役職に就き、長年に渡って岡山のまちづくりに尽力し、地域を担う若手の育成や教育にも携わっている。商人の精神「三方よし(売り手・買い手・世間)」に(地球・未来)を加えた「五方よし」の精神で地域の未来を見据える。


ーー戦後復興期の表町、その景色と記憶

終戦後、空襲に遭った岡山の市街地は一面焼け野原になりました。天満屋の一部だけが焼け残り、そこから表町商店街は再興していったのですが、当時は旭川の堤防から岡山駅までが見渡せるような惨状でした。その焼け野原に、商売人が我先にと店を開こうとしたために、街の整備が遅れて、特に今の岡山駅前商店街のあたりは店が乱立していました。当時の上之町は現在の天神町のあたりまであったのですが、狭かった道路(現・桃太郎大通り)が広がったために、道を挟んで上之町と天神町に分かれたのです。その証拠に、表町には八つの稲荷神社がありますが、上之町のお稲荷さんである甚九郎稲荷は今も天神町にあります。それ以後、町はどんどん変化していきました。その当時の思い出といえば、小学生の時、廃品回収に回っていたこと。リヤカーで県庁通りを歩きながら、いろいろな家庭を回って不用品を集めるんですが、車はまだ通ってなくて、馬がパッカパッカ荷車を引いて歩いていました。その馬糞を踏んじゃったりね(笑)。


ーー西日本豪雨を境に変化した岡山の県民性

先日の能登半島地震の後、岡山からかなりの人や企業が「何か役に立ちたい」と支援に向かいましたよね。阪神淡路大震災や東日本大震災の時よりも、支援活動に向かう人も多かったしスピードも早かったように感じます。それはなぜか?西日本豪雨を経験したからではないでしょうか。私自身、岡山で78年間生きてきた中で西日本豪雨は最大の災害でした。岡山は、「災難がないことが災難」だと揶揄されることがあります。実際これまでは他府県で災害があっても「隣は何をする人ぞ」で、遠いところの話には「気をつけてね」程度の関心の低さだったような気がします。テレビやネットの影響もあるとは思いますが、やはり他人の痛みを知ることができたことは大きかった。岡山は交通の結節点であり、歴史のある地です。気候も年中温暖で比較的災害が少ない。安全が守られていることが当たり前になっています。ところが西日本豪雨で安全は当たり前ではないことに気づきようやく「自分ごと」として捉えられるようになったわけです。人の痛みを知り、ボランティア活動のすばらしさを身を以て感じたことで、人のために役立ちたいと思う人が増えたのではないでしょうか。これが共通の認識になっていくと良いですね。あの西日本豪雨を機に、県民性が変化したと私は思えるのです。

ーー可能な限り「夢を持つ」ことが大切

リチャード・フロリダらが提唱した「創造都市」構想に、2000年頃、岡山市が名乗りを上げればどうかと提案したことがあったのですが、その時は実現しませんでした。時が経ち2023年10月、岡山市は文学の分野でユネスコ創造都市ネットワークの「文学創造都市」に選ばれました。これは、児童文学を中心とした文学に関する取組み等が評価されたものであり、岡山市が子どもを大切にしなければならないという使命を与えられたようにも私には感じられます。岡山市民が世界に対して何ができるかと改めて考えると、他の都市と同じようなことをするのではなくて、岡山が持つ特色を生かした文化やカルチャーを活かす他ない。銀座を開発した「サンモトヤマ」という会社の社長は、一商人から町の一角を作った人。私は総理大臣にも知事にもなっていない一商人ですが、生まれ育った表町が時代の流れで変化しながらもこのような形で生き残ったのだと後世に伝えたい。血の通った文化、カルチャーというようなものを根づかせたいと思っているわけです。心に刻むもの、心の栄養、心が求めるもの…そんな「心」の部分を担える場所にしたいと思っています。

ーー岡山人が世界のLove&Peaceのためにできること

岡山は食材に恵まれ、年中気候がよく、開発できる土地も豊富にあります。国内で最も地震が起きにくい場所だというお墨付きももらっており医療も全国で指折りの充実ぶりです。こういう特徴を生かし、もっとホスピタリティやボランティア精神を発揮して人の助けになることができるのではないかと思っています。例えば「児童福祉の父」と呼ばれた石井十次さん。出身は宮崎県ではありますが17歳で岡山県の医学校に入学し、その後、大原孫三郎のバックアップを得て岡山孤児院を創設しました。一時は1200人もの子どもたちを引き取り大切に育てるというすばらしい功績を残しました。ロシアのウクライナ侵攻にもみられるように、世界で勃発する戦争や災害のために、これからは困難を抱える人が増えるでしょう。そんな困難を抱える「世界の人々のために生きる」ことこそが、我々岡山県民にできることではないでしょうか。




岡山県民らしいホスピタリティを発揮して「世界の人のために生きようね」と自書してくれた古市会長。上のポートレートで着用しているデニムは、奥さまが履いていたジーンズをリメイクしたもの。奥さまと身長が2㎝違いなので、細身な会長はレディースがジャストフィットなのだそう。



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