COLUMN
VOL.23 道
22 April 2021
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葬祭業界と地域社会の活性化に邁進し、儀礼文化の形骸化に警鐘を鳴らす井上万都里が連載する対談企画。
それぞれの道を強い意志で歩み続けるゲストの言葉から、あなたの人生を切り拓く明日のヒントが見える。

「故人の想いと縁をつなげる」葬儀が持つ本来の意義を知ってほしい。

戦前は城下町のランドマークだった真言宗 薬師院

井上)薬師院の堂宇は、岡山市に暮らす方なら必ず目にしたことがあるでしょうね。3年前には全席椅子を配し、永代納骨堂を備えた新佛殿を完成され、地域の方々や檀家様にとってひときわ存在感が増したように思われます。

松原)岡山城の築城時に、領主宇喜多家より広大な寺地を拝領し、備前国周辺の僧侶が末寺住職になるための修行道場として、また地域では城下最大のランドマークとして、広く知られていたそうです。今後も世界中で活躍している檀家様の子孫が、郷土を訪れた時に御先祖様の存在を実感できる場所として永代に亘りこの地に在り続けねばと思っています。

井上)副住職は一般企業でサラリーマンのご経験がお有りになるんですよね。

松原)大学で仏教を学んだ後「これからの時代は、お寺目線“だけ”に偏らず、檀家様目線に立った見方など、より広い視野で今後の寺院の在り方を見い出していかねばならない」と考え、当時注目されはじめていたIT業界に就職しました。檀家様の情報管理など、寺務作業の多くをIT化できたのが経歴を一番うまく活かせた事例でしょうか(笑)。

井上)まさか(笑)。最近は副住職のように、すぐに仏門に入らない方が増えていますね。一般企業での就業経験は、仏道にとっても宗教にとっても大切なことなのではと私は思っています。

形骸化がますます進む?葬儀の意義

井上)緊急事態宣言発令時には葬儀も縮小傾向にありましたが、現在の需要はコロナ禍以前程度までは戻ってきたように感じています。ただやはり、家族葬など「できるだけこじんまりと」という流れは止まらないようです。私は常々、葬儀において《主役は故人》であり、故人の生きてきた軌跡や生き様を伝えていくことこそが重要だと考えているので、葬儀の本来の形が失われてしまうのはとても悲しいことだと思っているんです。

松原)本来は遺族と知友とが夜通し故人の徳や思い出話に偲び耽るべき《お通夜》も、今では、仕事終わりに立ち寄れる《夜の告別式》に形骸化していますね。目まぐるしく変化する社会の中で、なぜ変わらず弔う儀式があるのか。本義を踏まえ、形式だけではなく心がこもり伝わっていくことが一番大切と考えています。 最近では、『鬼滅の刃』が社会現象となり、多くの方が無宗教を謳いつつも、主人公達が“自他不二”を己の責務とした揺るぎ無い決意を全うしたり、後輩達が燃える心を受け継ぎ成長していく姿に日本中が感動しました。慈悲喜捨の精神に満ち、尊く美しい行為や信念を感じ取り、素晴らしいと皆が感動できるのは、神道と仏教の影響を強く受けた日本文化の中で生活するうちに《当たり前の宗教感覚》が、実はしっかり根付いているからこそだと思うのです。 儀礼やしきたり、言葉にも消えないものが多くありますね。例えば「ありがとう」を英訳すると“Thank you”ですが、本来「有難う」は“You”一人にだけ向けるものではないでしょう。森羅万象すべての“因と縁”に対する感謝までもが込められています。そうした元来の意味を知る手助けをすることも、仏教の大事な役目の一つです。皆が《日本文化ならではの感覚》で良き含意や模範に気付き、自身の観念をどんどん培ってくれればいいなと思います。

なぜ若い世代の宗教観は《他人事》なのか

井上)私は、副住職のおっしゃる《当たり前の感覚》が、今まさに消えていくのでは、と危機感を持っています。特に若い世代の宗教離れが加速していて、さらに家族関係も希薄になりつつある。親の葬儀の際に、交友関係はもちろん親がどうしたいかを知らない、だから家族葬を選ぶ、というのが現実なのです。私は、主役になるべき故人が置き去りにされる葬儀が当然になってしまうことに警鐘を鳴らしたいと考えています。

松原)当院では“終活”を備えることをお奨めしています。本人の意志を知らずに他者が儀礼方針や、延命治療の可否を決めることは、とても責任重大で大きな心的負担になることもあるからです。 ただ、後に残る若い世代に同じ宗教観を持っていてもらうのは確かに困難です。しかし宗教や祖先に対する畏敬は、日本の文化や環境にふれて育った人であれば何らかの形で自ずと具わる《心根》だと信じているんですよ。小学生の修学旅行で神社仏閣を巡りますが、友達と枕投げをした記憶しか残っていないですよね(笑)。 しかし、大人になって多くの人と関わり影響を受け、様々な挫折や喜び、感動を経験して心が成長してから再訪すると、同じ場所なのにまったく違う、時に科学で説明できない“神秘的な感覚”が得られることさえあるでしょう。人間としてしっかりした観念がないうちは、宗教観など目に見えないものの価値を自分ごととして考えられないのは仕方のないことかもしれませんね。 若い世代の人々に《心根》があっても、それを顕在化できないのは、人生の軸となるべき“心”を、例えるならば木々が根を張り基礎を固め、幹に年輪を刻み風に耐え、枝葉が繁り陽を一杯に浴び、花開き見る人に感動を与え果実をつけていくが如く、強く育てていきたい!という気持ちになる機会が希だからではないでしょうか。そもそも人間の成長とは何か? 密教では《三密加持》を行うことです。自分の身体と言葉(知識)と心との三つを、宇宙の大いなる力“大日如来”に支えられて、《即身成仏》に向かわせることを意味します。これに対して一般には、身体と知識はスポーツと学問などで鍛えます。では心はどうか? その心を育て感性を豊かに“人生の軸”を作るよう教え導くことこそ、宗教が本来担うべき役目なのでしょう。

井上)実は種子も、土壌もあるのに育てるチャンスが少なくなっている、ということでしょうか。本来、葬儀とは故人の考えや想い、付き合ってこられた周りの方との縁をつなぎとめるものだと思うのです。先祖から連綿と紡がれてきた歴史があってこその自分、という事実が忘れられつつある気がしています。

松原)核家族化で祖父母からの情操教育の機会も減り、神仏への畏敬の念を育てる為の神棚や仏壇は無く、正月の初詣と盆の墓参だけの方が増えてきました。宗教が日常生活に組み込まれていないために、急に宗教儀礼について理解することは難しいでしょうね。ですが、葬儀の際に宗教に初めてふれて、亡き人の供養を自分の身に引き継ぐことになったとき、自分なりの自覚とともに宗教観が生まれることは多いと思います。人が心を動かされるのは、自分のためにする行いではなく、人のために行動したとき。きっかけが四苦八苦の一つ“愛別離苦”の真只中であれば、なおさら意義深く向き合えるのではないかと思います。

住職の言葉「人を救うのは学問でなく、宗教」

井上)東京大学とハーバード大学院で古代インド哲学とサンスクリット語を研究されたというご住職。長年学問として仏教に接してこられたにも関わらず、「人を救うのは学問でなく、宗教」というお言葉が印象的です。副住職は《学問》としての宗教についてどうお考えですか。

松原)お釈迦様は、“悟り”は言語道断(言葉では伝えきれない)だが、生涯“対機説法”(相手毎に最も理解できる説法)を続けられました。それを後世に残すために経典として編纂され、これまで国内外で多くの学者により研究されて、奥深い知識の宝庫となりました。この知識があってこそ理解できるということも多いですが、それがすべてではないのです。“理屈とは別にはたらく本能”に備わっている、頭で損得を考えるのでなく、感性により身体が咄嗟に動きだすという心も必要だと思います。例えば終わりの見えないコロナ禍にあって医療従事者の皆さんの心の中にあるのは“人を救いたい”使命感、ただそれだけでしょう。そうした本能的な“慈悲の心”や“利他行”と呼ばれる感性こそが、社会生活と人間関係に必須の《和》を完成させる力を持つと考えます。

井上)知識だけでは人を救うことはできない、ということですね。

松原)何が善なのか、なぜそうなのかを正しく理解するのが知識。これを行動に生かしていくのが“智慧”です。そして、人のためを思いやる心の“慈悲”。この智慧と慈悲が融合して生まれる行為、これこそが大乗仏教の根幹を成す《菩薩行の実践》なのです。

世のため人のために今こそ「相互供養・相互礼拝」を

井上)ようやくワクチン接種は始まったものの、今なおコロナ禍の中で不安は払拭されていません。これから私たちの拠り所となるお教えをお聞かせください。

松原)文明が発達して飽和し、お金さえあれば直接人と関わらなくても生きていけると錯覚する現代の世の中は、特に人と物に対する「ありがたさ」が薄れていると感じます。誰しも、一人では生きていけないことが頭でわかっていても、得心できるかというと難しいでしょう。ですが、狩猟農耕の時代から、人類が進化し生き残れたのは、力を合わせて助け合ってきたからこそで、困ったときに他の人に助けを求めることは当然なのです。とかく日本人は他の人々に対して遠慮しがちで、一人で抱え込んで自分を追い詰めてしまいますが、コロナ禍の今だからこそ、当たり前に助け合い、お互いに手を差し伸べ合うコミュニティを形成してほしいと思います。弘法大師の「相互供養・相互礼拝」のお言葉。見えない縁で結ばれた皆が互いに尊敬し合い供養し合うこと。心のこもった思いやりの行為を互いに為し、礼拝し合うことです。しかも、他がための行為が実は自心の成長の糧になる事実《自他の不二》に気付き、そうした心的修行の実践がコロナ禍の中で見直され、よき未来につながるきっかけになるのであれば、コロナ禍さえ修行の一環として捉え直すこともできるのではないでしょうか。人間にとって自然は恩恵と畏怖の両面を見せます。平時は人間が制御できていると錯覚しますが、もちろん思い通りにはなりません。困った時は、お互い様。何時立場が逆転するかも解りません。そんな《無常》の中で我々はいつも互いに支え合い共生している現実を、今こそ思い起こさねばならないでしょう。

コロナ禍だからこそ神仏に手を合わせる機会をつくりたい

井上)薬師院といえば年中行事やお茶席など季節ごとのイベントが盛んですが、コロナ禍で何か変化はありましたか。

松原)春秋のお彼岸とお盆の年3回行っていた大法要やお茶席も例年満員でしたが、やはり縮小を余儀なくされました。しかし、こういう時勢だから尚さら、祈り願う場を閉ざしたくないという想いで、新しい参拝の形を模索しています。本尊お藥師様の御威光が皆に届くように願い、試行錯誤の中で本堂正面に透戸を設置し、常に宮殿が見えて拝めるように。また、昨年の秋彼岸の行道(距離を保った行列)での本堂参拝など、今後もより宗教的安寧が得られ、安全にご参拝ができるよう工夫を重ねていこうと考えています。

〇井上 万都里(株式会社いのうえ 専務取締役)
儀礼文化研究所の創設など文化伝承にも貢献する葬儀社、株式会社いのうえ専務取締役。オカヤマアワード副会長、葬儀社による全国大会ネクストワールド・サミットの実行副委員長も務める。

〇松原 光敬(真言宗 薬師院 副住職)
住職がハーバード留学中に1970年アメリカで生まれ、2才で帰国。操山高校から龍谷大学仏教学科に学ぶ。卒業後はSEとしてIT企業で5年間勤務。その後高野山専修学院にて僧階取得、自坊にて経験を積んで現在にいたる。

○真言宗平醫山 藥師院
市街中心地にある古刹。盛時は大本堂をはじめ、もと沼城の桃山様式書院を移した客殿や多数の堂宇が並び立つ大伽藍で、備前国の中学林を担う。戦後、寺領は大幅に縮小したが、檀家皆様と住職の尽力により、1981年に本堂を再建、2018年には新佛殿が完成した。数多い檀家様に対する法務、相談や要望など、よりきめ濃やかな対応すべく、現在、住職と副住職、他に役僧4人が勤め精進している。
住所:岡山県岡山市北区磨屋町2-18/電話:086-222-3852

○株式会社いのうえ
大正2年に井上葬具店から始まった株式会社いのうえは2013年に創業100年を迎えた。都市化を見据えた新たな葬儀スタイルの提案など伝統と革新を見極めながら成長する全国屈指の葬儀社。
住所:倉敷市二日市511-1 /電話:086-429-1000/HP:http://www.everhall.co.jp/

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