岡山県・赤磐市熊山地区で生まれ、晩年を岡山で過ごした詩人 永瀬清子。 詩で社会的弱者に寄り添い、当時の女性たちの窮状や心の有り様を表現した。 彼女の生家にて、生家保存会代表の横田氏の話を伺いながら思考を巡らせる。
私たちはずっと「自由」と「平等」を追い求め、「真理」を掴もうとしているのだと。
現代詩の母を訪ねて
「人を励ますための《 詩 》」女ゆえの重りを言葉に紡ぐ現代詩の母・永瀬清子を語る。
Toshiko Yokota
The president of a nonprofit organization
横田 都志子(よこた・としこ)
詩人永瀬清子の生家の保存活動を展開する NPO 法人 「永瀬清子生家保存会」理事長。岡山大法学部卒業後に建築士の資格を取得、32 歳で設計事務所「unita 設計室」 を経営、住宅や店舗設計に携わった。永瀬の「何で食べ て い く の か 」 の 言 葉 に 動 か さ れ 、 岡 山 市 北 区 国 体 町 に カ フェ・定食「ぽん太」(080・5626・1453)をオープン。
「“ 女は、うっかりひょんでなければ詩は書けない」
「 うっかりひょん 」から導かれた活動への縁 ”
○偶然という名の何かに導かれ
「ハッキリ言い切れます。永瀬清子の詩にふれると《死ににくくなる》」。
詩人・永瀬清子。明治時代1906年《2月17日》に現赤磐市の熊山地区で生まれ、金沢や愛 知、大阪東京を転々とした後戦時中に岡山へ疎開。そこから岡山で晩年を過ごし、1995年《2月17日》に89歳の生涯を閉じた。明治から昭和、平成と、ジェットコースターのように浮沈の激しかった時代を生き抜く中で多くの珠玉作を発表、「現代詩の母」と称された。『短章集』や『だましてください言葉やさしく』『あけがたにくる人よ』など世に出た詩集は 冊を超えている。高村光太郎に詩集『諸国の天女』を絶賛され、『短章集』の名付け親でもある谷川俊太郎には、請われて4冊の詩集装丁を委ね、石牟礼道子による書評は文壇のみならず大きな話題を呼んだ。――にも関わらず、詩集のほとんどが絶版で、その生家は保存に苦慮している現実。
「永瀬清子生家保存会」理事長、横田都志子さんが一番最初に永瀬清子に出会ったのは岡山市北区三野に今も残る純喫茶「エスプリ珈琲店」。学生時代にアルバイトをしていたとき、店内で詩の朗読会を行っていた。その中心に居たのが永瀬清子その人だったのである。「小さな、背中も曲がった、普通のおばあさん。オーラもなかったし朗読も 正直、下手でした」。しかし、永瀬の声が小さく響くと空気が一変するのを感じたという。「この人にはなにかある」と感じながらも日常に追われ、再度の邂逅まで20年の時が経ってしまう。奇しくも、横田さんの建築家としてのデビュー作はこのエスプリ珈琲店のリニューアルだった。
今年で没後年。本人と実際に交流があった方々は軒並み高齢化し、生家は古く、朽 ちようとしている。2016年には敷地内の蔵が崩れ、横田さんたちは悔しさにまみれながら取り壊さざるを得なかった。「永瀬清子という詩人の検証や研究や建物の保存、というよりは、私の政治活動なんです」。
横田さんが「永瀬清子生家保存会」理事長を引き受けたのは建築家時代、クライアントからたっての願いだったという。学生時代のニアミスを思い出したのも先のこと、当時は永瀬清子の偉大さも詩も知らなかった。「建築家ってね、ものすごいストレスが溜まるんです。でも、清子の詩を読むと清涼剤のように、シューと消えてなくなって、スッキリするんです」。理事長になってから読み始めたという言葉に、幾度も救われた。「清子の詩は、どこから読んでもいい。読むその時その時のコンディションによって、まるで違う表情を見せてくれるんです」。
○「女」であるがゆえの詩
永瀬清子は、大地主の分家筋に生まれ、幼少期を過ごした金沢ではミッション系の幼稚園に通うほど裕福な家庭で育った。「当時良家の子女は短歌や俳句を嗜むもので、詩などはアバズレ女がやるものとされていました。だからすごく反骨精神にあふれた人柄だったことが感じられます」。実家は当時岡山では禁教とされていた日蓮宗不受不施派を信仰していたことから、幼少期から培われていたのかもしれない。「一貫しているのは《物言えぬ弱いもののために、その立場に立った詩》。世の中はそうした、声を出せない人たちこそが生きづらいことを知っていたのだと思います。
どんな人でも自分らしさを失わず、生をまっとうできる、そうした世の中であってほしい という願いが込められています」。清子の生は何不自由のない恵まれたものだった。しかし「女」であるがゆえに不遇だった時代であり、また本当に好きな人と結ばれることがなかった。「だからこそ《人を励ます》ための言葉、希望を持ち続けることができる言葉を描けたのではないかと思います」。
“ 誰しもが尊重され何ものにも束縛されず
自分の人生をまっとうできる世の中であるように ”
○「現代詩の母」と呼ばれて
清子が詩人として活動し始めたのは1930年、清子24歳の頃。処女作『グレンデルの母親』に続く『諸国の天女』高い評価を得る。その後も次々と作品を発表、戦禍から逃れて岡山に帰ってからは農業に従事する傍ら詩作を続けていった。「戦時中、反戦思想を詠って投獄された文芸家もいる中、清子は家を捨てることも戦争を止めることもできなかったことを後に悔いています。だから近隣の人に都会から戻ったにわか仕込みの農業を揶揄されても、農業をやめることはなかったのです」。岡山へ帰郷後は、農業の様子や田園風景が頻繁に描かれている。そして清子を語る上で欠かせない、ハンセン病療養施設とは名ばかりの強制隔離施設「長島愛生園」との関わりが浮かび上がる。
○しぶきの上がるところに詩は生まれる
長島愛生園とは、瀬戸内市にあるハンセン病の国立療養所。当時は「らい病」と称され、感染が原因で起こる不治の病とされて患者は隔離、療養所はコロニー化していた。外部から遮断されていたせいで差別も生まれ、社会問題となっていた場所に、清子は足しげく通い、療養患者に詩作指導を行なっていたのだ。「生きる時間が少ない人が集まっている場所。絶望しかない患者に対して 《生》へのメッセージを書き連ねていたのです。死にゆく人にとって必要なのはお金や目に見えるものでは決してない。《あなたの人生は素晴らしい》という言葉しかない」。
清子の詩にふれ、自らも詩作を行うようになった患者たちは《生》への希望を見出すと同時に、また苦悩も感じていた。「 清子は言っています。《しぶきの上がるところに詩は生まれる》。人間が絶望し、苦悩の底に素晴らしい詩が生まれるのだと。《生》へのエールの裏に、詩人として《いい詩が生まれるのを見たい》という残酷な欲求はあったのかと感じるんです」。やがてハンセン病は特効薬が開発され、患者たちは死からは逃れることができたが、隔離が解けることはなかった。治るとわかってからは詩作だけでなく音楽や芸術など、さらに表現活動が活発化する。清子の指導で著名な詩人として名を馳せたハンセン病患者には『志樹逸馬詩集』『島の四季』の2冊を刊行した志樹逸馬(1917〜1957)がいる。
○男と女は平等なんです
「私自身、建築家を目指したのは《女だから》。女が自分がしたいこと、仕事も子育てもどちらも諦めず、年を取っても働くことができる職業は一握りしかなかった。今の時代、清子の時代とも私が若かった頃とも価値観は違っていますが、清子の詩には希望がもらえる言葉がたくさんあると思う」。清子の詩にふれて、人生を振り返ったとき、《女だから》我慢を強いられてきたことに気づく。「パートナーを旦那さん、とか言うのはやめてほしいし、結婚したら幸せになれるってのも幻想だと気づいてほしい。自分の足で立てる人だけが相手を愛し、大切にできるのではないかと常々思っています」。
(写真左から)生家に隣接していた蔵の前にて次男の連平と/詩人仲間と永瀬清子/総合文化センター(現天神山文化プラザ)のビロティにて ※所蔵なんばみちこ
(写真上)八重の紅梅越しに母屋南の縁側を見る
(写真下)生家にいまも現存する釡戸
私が豆の煮方を
私が豆の煮方を工夫しこげつきにあわてているひまに
あなたは人間の不条理についてお考えです
私が小さい者たちのあすの運動着のことや
あかいピン止めも買ってやろうかと財布をのぞいて迷っている時
あなたは我々の共通の運命についてお思いなさり
あなたは磁石の接近で一時に整頓する鉄砂のように
すべての事が解決できるとお思いです
私が小さい乳母車を押して
道のでこぼこに行き悩むとき
あなたは力強い回転で雪をはねとばすラッセル車のように
いつも物事を解決される
私のみみっちいのは 女の生れつきか
腕の力がちがうのか 心の力もちがうのか
それでも私は自分のあり方でしか行けず
私は地面を刺繍するように一歩ずつしかすすめない。
きっとあなたは遠い遠いことをお考えなさり
でも私は自分の小さい針で
こころをこめて刺すことしかできないのです。
それは不要のこと甲斐のないムダでしょうか
あなたを補ってはいないでしょうか
もしか三月、葡萄の木の根元をたがやし
よい土入れをしてやるように―――
そして五月、みのりすぎた実をまびいて
一粒ずつを大事に大きくするように―――
熟れゆく葡萄はそのことをいつも喜びはしないでしょうか
『あけがたにくる人よ』(思潮社)より
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焔について
焔よ
足音のないきらびやかな踊りよ
心ままなる命の噴出よ
お前は千百の舌をもって私に語る、
暁け方のまっくらな世帯場で――。
年毎に落葉してしまう樹のように
一日のうちにすっかり心も身体もちびてしまう私は
その時あたらしい千百の芽の燃えはじめるのを感じる。
その時いつも黄金色(きんいろ)の詩がはばたいて私の中へ降りてくるのを感じる
焔よ
火の鬣(たてがみ)よ
お前のきらめき、お前の歌
お前は滝のようだ
お前は珠玉のようだ。
お前は束の間の私だ。
でもその時はすぐ過ぎる
ほんの十分間。
なぜなら私は去らねばならない
まだ星のかがやいている戸の外へ水を汲みに。
そしてもう野菜をきざまねばならない。
一日を落葉のほうへいそがねばならない。
焔よ
その眼にみえぬ鉄床(かなとこ)の上に私を打ちかがやかすものよ
わが時の間の夢殿よ。
詩集『焔について』より
見学などのお問い合わせはNPO法人永瀬清子生家保存会 岡山県赤磐市松木691 070-3783-0217 0217@nagasekiyoko-hozonkai.jp
女波男波 i 夕ぐれ
男が夕ぐれをみるように 女も夕ぐれを見たかった
けれど長い間夕ぐれを見る女はいなかった。
女は夕飯のしたくにいそがしく手を拭き
あがりがまちを上り降りしていた。
やっと炊飯器や冷蔵庫や洗濯機が助けてくれて
女もはじめて詩を書きだした。
空気も象徴もはじめて女の手にさわるようになった。
女波男波 ⅱ ぐれなければ
女はぐれなければ詩は書けなかった=「放浪記」
女は後家になってはじめて詩を書いた=「笛吹き女」
女はあんぽんたんや
うっかりひょんでなければ詩は書けなかった=「私」
今はよくなった。
自由と平等の靴がそこにそろえられ
現代詩講座が街々にあり
まともな娘や細君もみな行けるようになった。
スーパーへと同じように――。
女波男波 ⅲ 女波男波
女性が男女同権を主張するのは
今まで女性が不当に低く扱われていたからで
永久にそれを目標にし云い立てるわけではない
つまり「女性も一票持つべきだ」と言う事は
一票持つまでの正義であり
一票獲てからはそれが消え去る。
そして男女の別なくどのようによく行使するかが共通の問題になるのだ。
だから男はそう心配しなくてもいい。
海には勿論女波男波があり
高さと低さはいつもまじっている
高さだけの波がある筈はない。
『卑弥呼よ卑弥呼』(手帖舎)より
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◯Feature of KIYOKO NAGASE
永瀬清子を知る入口となる実験的映像作品「きよこのくら」。
イタリアの歴史ある短編映画祭、 69th Montecatini International Short Film Festivalのインターナショナルコンペティション ドキュメンタリー部門でノミネートされた作品。
制作:永瀬清子生家保存会
自主上映のお問い合わせは下記
https://www.nagasekiyoko-hozonkai.jp/