『写真時代』をはじめ、数多のエロ本を次々と世に送り出し70~80年代のアダルト誌黄金時代を築いたエロ本界のレジェンド・末井昭。昨年映画化された自伝「素敵なダイナマイトスキャンダル」ですべてをさらけ出したその激動の人生と、そこから紡ぎだされた死生観を語る。
やけくそになって死ぬんじゃなく、やけくそになって生きる。
この夏、大手コンビニチェーンの店頭からアダルト雑誌が次々と姿を消した。東京オリンピック・パラリンピックを間近に控えていることもあり、「外国人・女性・子どもを含む、誰もが利用しやすい環境づくりのため」――エロ本がそこら中のコンビニに並んでいるのは、風(ふう)が悪い――ということらしい。確かに、「アダルト誌があんなにオープンに売られているなんて」と驚愕する来日外国人は少なくない。家族で性を語らうことすらタブーとされる『恥じらいの国・日本』のイメージからすれば、それも当然だろう。しかしエロ本には、孤独な漢(おとこ)たちの夜の盟友であると同時に、日本文化の多様化・発展の一翼を担ってきた側面もあることを忘れてはならない。特に、70年代から80年代初頭にかけて創刊された人気誌には、インディーズミュージックやマンガ、アート、アングラアイドルページが人気を博したものも多く、エロよりむしろそちらが目当ての読者も相当数いたとかいなかったとか。いずれにせよ、月灯りを浴びるのが精いっぱいであった日本のサブカルが今や太陽の下でのびのびと羽を伸ばせるようになったのも、「エロ本」という大らかな『故郷』があればこそなのだ。
そんなエロ本界のサブカルチュアリズムをけん引した人物のひとりが、『写真時代』(1981~1988)元編集長の末井昭氏。『写真時代』のほかにも、『NEW SELF』や、『ウィークエンドスーパー』など、幾多のエロ本を世に送り出してきたいわばエロ本界のレジェンドだ。「当時のエロ本業界は今よりずっと厳しくて、ヘアがちょっと見えてるだけですぐに警察に呼び出されて。発禁(発売禁止)も日常茶飯事でした。でもその代わり、エロ以外のページは自由に作れたんです。雑誌広告なんてほとんどない時代でしたから、スポンサーの顔色を気にする必要もなく、読者が面白がってくれるものを、つくり手が好きなように作れた時代だった。いい時代でしたね」。
そう、彼は編集者であったが、それと同時に表現者でもあった。いや、正しくは、編集者の仮面をかぶった表現者であった。ただ切実にエロを求めるなら、女の裸体を並べていればよかったはずだ。アートだとかカルチャーなどといわず、男たちの欲望に応えていれば、それで十分に編集者としての使命は果たせたはずだ。それでも彼は、しばしば性的快楽の範疇を超えた画づくりに挑み続けた。ときに女の体をペインティングしたり、ときに女の排泄物を口に含む男の写真を載せて読者の度肝を抜いたり、アートという隠れ蓑のもとに、縦横無尽に自らの表現を貫き続けた。彼の中には、それほどまでしても表現し尽くせない、強烈な情念があったのだ。
「僕が7歳のとき、地元の岡山県和気郡吉永町(現備前市吉永町)の山中で、夫も子もある女と若い愛人が心中を図りました。ただの不倫心中ではありません。鉱山のに使うダイナマイトを使った、自爆心中でした。もちろん、ふたりの体は吹っ飛び、遺体と呼べるのは辺り一面に飛散した無数の肉片ばかり。それでもその一部にあった布切れから、亡骸の主はすぐに分かりました。べっとりと血のりのついたその布片は、確かに僕の実の母・末井富子が身に着けていた着物の一部だったんです」。
その強烈なトラウマは、振り払っても振り払っても彼を支配し続けたに違いない。やがて高校を卒業して地元を離れても、幼少期のその衝撃はときとともに薄れるどころかむしろ濃密に凝縮され、彼の魂に深く宿り続けた。「もちろん、決してその過去を口外することはありませんでした。おかしな奴だと思われたくなかった。でも、なぜですかね、上京してしばらくしたころ、この人なら、という友人ができてその人だけには話しました。気持ちがすごく楽になったけど、人前で話したりすることはありませんでした。出版社に入って知り合った芸術家の篠原勝之さんに、何となく話したら笑ってくれたんです。同情するでもなく、気持ち悪がるでもなく、ただただ面白がって聞いてくれたんです。母親の心中話でウケるということを、そのとき初めて知りました。それまでは、そういう話は嫌がられると思っていたんだけど、それを表現してもいいんだっていうことを教えてもらったんです」。
それをきっかけに自らの過去を語りはじめた末井さんは、その後、事件までの成り行きやその後の人生を事細かにしたためた自伝本を執筆。1982年に発刊された「素敵なダイナマイトスキャンダル」は、幾度かの再版を経て、2018年には柄本佑さんの主演で映画化もされた。 とはいえ、末井さんのその後の人生が決して穏やかになったわけではない。『写真時代』の廃刊後は、半ば鬱のようになってパチンコにのめり込み、パチンコ・パチスロ誌の成功で手にした金もバブルのあおりを受けて莫大な借金に変わった。編集者を引退してからもその借金は増え続け、今もエッセイストとして日銭を稼ぎながら月々5万円を細々と返す日々。けれど、その壮絶な半生を淡々と語る末井さんの顔はひょうひょうとして、どこか楽しんでいるようにさえ見える。
「確かにあの事件がなければ、自分の人生は全然違ったものになっていただろうと思いますよ。あのとき自分の魂に刻み込まれた情念は、いつまでも消えることはない。でも逆に考えれば、今の自分がここにいられるのは母のおかげだともいえるんです。エロ本やパチンコ雑誌の編集者になることも、自伝を書いて、それが映画化されることも絶対になかったでしょう。ほかの誰もしたことのないあの特異な経験があったからこそ、僕は表現者となり、表現者であり続けてきたわけです。だから編集者でなくなっても母のことが表現者としての僕の核であり続けるし、表現するのをやめることもない」。
そんな末井さんのもとには、最近、人生の苦しみを吐露する相談メールや手紙がしばしば届くという。そして末井さんはその一通一通に目を通し、できる限り返信する。 「『自殺』という本を書いてからなんですけど、僕に何ができるわけでもないし、そもそも何かしてあげようなんて思っているわけでもないんだけど、なんか無視できなくてね。自殺まで考えてしまうような人はどういう人なのか、どういう気持ちなんだろうかとか、不謹慎かもしれないけど、好奇心みたいなものかな。僕の母親はやけくそになって死んじゃったけど、そういうところは僕も似てると思うんです。バブルの時なんか、半ばやけくそで不動産を買いまくったりして、数億の借金が残ったんですけど、どうでもなれと思えば何とかなるものなんです。どうしようもないくらい絶望的なことがあっても、どうでもなれって思えば、気持ちが切り替わるし。母親はやけくそになって死んじゃったけど、僕はやけくそになって生きてきたってことですかね」。ときには、まだ10代と思しき送り主からメールを受け取ることもある。見知らぬ若い命の揺らぎに触れて思い出すのは、幼少期を過ごしたあの寒村の空だ。 「孤独な人が多いんですね。僕の子どものころはね、幸い、母親のことを理由にいじめられることはなかったんだけど、家に友達を呼んで遊ぶっていうことはほとんどありませんでした。いつもひとりで、ただひたすら空を見上げて過ごした。寂しいとか辛いとか、そんなこともなにも考えないで、ただぼーっと眺めてるだけ。そうやって目の前を流れていく雲を見てると、かわいい動物に見えたり、怪物に見えたりして、それだけで十分楽しかった。孤独というのは自分でつくり出すものなんです。あれこれ考えなくても、無理してもがかなくても、時間は流れて状況は変わっていく。生きているだけで十分楽しいと思います」。
○末井昭/編集者・エッセイスト
1948年岡山県生まれ。工員、キャバレーの看板描き、イラストレーターなどを経て、セルフ出版(現・白夜書房)の設立に参加。『ウィークエンドスーパー』、『写真時代』、『パチンコ必勝ガイド』などの雑誌を創刊。2012年に白夜書房を退社、現在はフリーで編集、執筆活動を行う。『自殺』(朝日出版社)で第三〇回講談社エッセイ賞受賞。