井上万都里の「道」_vol.19

葬祭業界と地域社会の活性化に邁進し、儀礼文化の形骸化に警鐘を鳴らす井上万都里が連載する対談企画。それぞれの道を強い意志で歩み続けるゲストの言葉から、あなたの人生を切り拓く明日のヒントが見える。

伊勢神宮と出雲大社、天と地の両神を祀る藤田神社

井上)豊かな水田が広がる岡山市の南、藤田地区に鎮座する藤田神社。児島湾干拓の守護神として建立された貴社は、お祀りされている御祭神だけでなく、起源や建立までの経緯からして、全国的にもかなり珍しい類の神社だとお聞きしています。本日は、まず貴社の成り立ちについて詳しく教えていただきたいと思います。

今井)大正4年に、児島湾干拓事業の守護神として児島湾神社という名で創建されたのが当社の起源となります。この干拓事業は困難を極めたものだったため、神様の庇護をいただき、事業の成功と地域住民の永幸を祈念するための神社として創建されました。その際、伊勢神宮より天津神、出雲大社より国津神をご分霊いただきました。御祭神として両神をお祀りしているということが当社の特色としてまず挙げられることでしょう。この両神が一つの境内地の中にいらっしゃる神社は他にもあるのですが、一つのお社に祀るというのは、全国的にも非常に珍しいことなのです。と言いますのも、どちらも日本を代表する格式の高い神社ゆえ、本来それは御法度とする向きがあるからで、我が国の歴史のなかでも、伊勢神宮と出雲大社の合祀は特別なことだったと言えます。それが実現できたのは、藤田神社の名前の由来となる、明治の大実業家であり慈善事業家としても名高い藤田傳三郎(でんざぶろう)氏の御力あってのことでした。

国利民福の精神で児島湾干拓を手掛けた藤田傳三郎

井上)藤田傳三郎氏と言えば、鉱業、建設・土木、電鉄、電力開発、紡績、新聞など多岐にわたる事業を手掛け、DOWAホールディングスや関西電力、大成建設、南海電鉄、東洋紡といった、今日の多くの名門企業の前身を育てた人物。近代日本経済の礎を築いたとも評される、明治時代における関西財界の重鎮ですね。関西で活躍していた彼が、なぜ岡山の地で児島湾干拓事業を手掛けたのでしょう。

今井)そもそも、児島湾干拓というのは、江戸時代から岡山藩の悲願でした。江戸から明治へと時代が移る中でも、いわば公共事業として続けられていましたが、県の財政は厳しく、また事業のスケールの大きさを前に頓挫してしまいます。そこで国に事業の継続を要請したのですが、資金があまりにも高額なため断られてしまったそうです。地元の実業家や名のある財閥など、方々手を尽くし事業主を探しますが、成功の保証も採算がとれるあてもない、ということで誰も引き受けてくれる人はいませんでした。この状況の中立ち上がったのが、当時すでに大阪で揺るぎない地位を確立していた藤田傳三郎だったのです。彼は、この干拓事業が日本という国にとって非常に有益であると感じ、前人未踏の事業に乗り出すことを決断しました。とは言え、彼にとって岡山は縁もゆかりもない土地。にも関わらず、この事業のために私財を投じたのです。これはきっと、自身の利益や名誉のためではなかったと思います。日本という国に生まれ育ち、商売をさせてもらって得たものは国と民に返していくべきだ、という彼の信条に沿った決断だったのでしょう。まさに、国利民福を地で行く人物でした。

蒼海転じて美田となす

井上)知れば知るほど、彼が実業家という枠を超えた、まさにリーダーたる人物だったということがよく分かります。しかし、児島湾干拓地と言えば総面積1650万坪以上という壮大な敷地。その道のりは決して平坦ではなかったのではないでしょうか。

今井)まさにその通りで、工事がスタートした明治32年から全行程が完了する昭和38年まで、約65年の歳月がかかりました。地盤は非常に軟弱で、堤防を築いてもその数時間後には泥に飲み込まれるという有様だったと言います。また、せっかく築いた干拓地も水害や塩害が相次ぎ、農地として実用化できるまでにも多くの困難がありました。傳三郎は完成を見ることなく明治45年に他界するのですが、その遺志を継いだ、藤田組2代目当主、平太郎が干拓の成就と土地の鎮魂を願い、大正4年に神社を建立。これが当社の前身となる児島湾神社です。日本神話の御教えでもある「天地結びて国作れり」という言葉のとおり、天と地を結んで日本の国土をつくったという神話になぞらえ、天地両神の御力をかりて、事業を庇護していただこうという傳三郎の遺志のもと、当社はつくられました。冒頭のお話にあった伊勢と出雲から神様をお迎えしたのはこのためだったと言えます。傳三郎が描いた夢は、幾多の人々の血の滲むような努力の末、大神様が見守る中、ついに達成され、いまこの地に豊かな恵みをもたらしてくれています。彼の功績を仰ぎ、ここは藤田という地名になりました。また、この事業の成功によって築かれた岡山平野は、機械化農業の舞台として日本の農業をリードし、今日の岡山が農機具生産のメッカとなる礎をつくりました。

ルーツを知り理解を深めることで大切なことを胸に刻む

井上)貴社のように、ここまで近代日本の経済史と郷土史に深く関わっている神社は、全国的にもかなり珍しいのではないでしょうか。ただ、多くの神社仏閣に共通して言えるのは、地域の寺社がその地域の成り立ちに深く関係しているということでしょう。神社が地域のルーツであるということは、言わば私たち自身のルーツでもあると言えます。神社の起源や現代に到るまでの変遷、住民にとってどのような存在であったのか、そういったことを知ることが、自身のルーツを探るきっかけにもなるのではないかと思います。例えば葬儀の所作で言えば、その一つひとつに意味や目的があります。仏事におけるご焼香を例に挙げると、宗派ごとに細かな決まりは違いますが、目的としては同じです。まず、香によって自分の体を浄化し、邪気を払って心身を清めること。そして香を焚くことは、仏への献上と、故人を弔い、現世での行いを称え、成仏を祈るという意味があるものです。つい作法の手順ばかりに気を取られがちですが、その所作の意味するところを知ることによって、一つひとつの行いに真心がこもる、それが葬儀において何より大切な故人への手向けになるのではないでしょうか。葬儀の所作にしても、神社仏閣の成り立ちにしても、知ることで初めて理解できることがあります。そして、その理解が私たちに本当に大切なことを教えてくれるのではないでしょうか。私は、この「道」という企画を通し、身近な神社仏閣に目を向けることで、郷土史や自分のルーツを知るきっかけを提供できればと願ってきました。それが、郷土愛を深め、自身の誇りを醸成することにも繋がると思っています。また、神道や仏教という宗教文化は、日本の伝統や日本人の精神に深く結びついてきました。日本人にとって大切な精神や儀礼文化を継承するためにも、地域の神社仏閣に目を向けていただきたいと思います。

伝統を踏襲しながら時代に合わせ進化させることが重要

井上)昔から地域の寺社は、その地区に住む人々のコミュニティの中心でした。日本人の精神文化や土地の歴史は、そのコミュニティを介し、自然に伝わっていたのだと思います。しかし現代においては、宗教の形骸化と地域コミュニティの崩壊が進み、放っておいては伝わらない時代になってしまった。これからは、伝えていく時代です。我々いのうえも、宗教家の方々とともに、その一翼を担うことが儀礼文化企業としての責務だと自負し、取り組んでいます。その一つが、自社の葬祭ホールで行う「エヴァホールマルシェ」というイベントです。地域の「縁日」としてここを拠点に人が集い、賑わいを創出するとともに、人と人、人と地域の縁を繋ぐきっかけをつくりたい。例えこれが小さなコミュニティであっても、それを線と線で繋げていくことで、人々の交流の場として継続発展することを願っています。始めは、これを葬祭会館でやること自体が、本来の葬祭業のイメージとはかけ離れているということもあり、戸惑う人も多くおられました。新しいことをすれば、周囲に様々な拒否反応が出るものです。もちろん、伝統を蔑ろにしていいというわけではありませんが、守ることだけに固執していては、新しいものも生まれないと私は思うのです。柔軟な視点を持ち、伝統を大切にしながらも、時代に合った新たな取組みを仕掛けていく。この踏襲と進化を掛け合わせることが、これから先、ますます必要になってくると思います。

今井)井上さんがおっしゃるように、守り、進化させる、この両輪を併せ持つことが大切だと私も思います。神社で言うと、本来の定義は神様をお祀りし、祈りを捧げる場所です。私は、この神聖な空間を生かし、新たな取組みをしていきたいと考えてきました。その一つとして挙げられるのが、当社境内地にあるステージです。企画した当初は反対意見も多くあり、着手するまでに様々な衝突もありました。しかし、この舞台を使いたいというお声や、応援をしてくれる人も多くいらっしゃったのです。結果として有志の方々と力を合わせてこのステージを造ることができ、現在では、季節ごとのお祭りの際に地域の方々が歌や踊りを披露したり、イベントに使用するなど、地域の方同士の交流が生まれる場所として、当社になくてはならない要素となっています。私は、東京で長く神職を務めた後、8年前岡山に戻り、こちらに奉職しました。当時は地域性の違いなどから様々なギャップを感じ、戸惑うことも多々ありましたね。しかしそれが、宮司としての考え方を見つめ直すきっかけにもなりました。こちらで神職を務めるうちに、神社は地域とともにあるべきだ、と改めて実感することができたのです。これは、周囲の意見に合わせて右往左往するのではなく、軸として、地域の方々の拠り所となるということです。この地域にとって、当社が神社として何を求められているのか、それを見極めながら、独自の取組みにも力を入れていきたいと思います。

井上)ブレない軸を持つこと、それは私たちの新たな取組みにおいても重要なことだと思います。マルシェとステージのように、伝統という大切な軸を守りながらも、今の時代にフィットした感覚を取り入れ、時代に合わせてアップデートしていく。これからも、立場は違えど同じ目標を目指す同士として歩みを進めていきたいと改めて思いました。本日はありがとうございました。

今井 伸 / 藤田神社 宮司

吉備津神社、東京の神社などで20年神職を務めた後、8年前、実家である藤田神社に奉職。平成28年より宮司を務める。境内に舞台を造るなど、従来の神社の枠組みにとらわれない取組みも推進している。

井上 万都里 / 株式会社いのうえ 専務取締役

儀礼文化研究所の創設など文化伝承にも貢献する葬儀社、株式会社いのうえ専務取締役。オカヤマアワード副会長、葬儀社による全国大会ネクストワールド・サミットの実行副委員長も務める。

藤田神社

大正4年、児島湾神社という名で建立されたのが起源となる。児島湾干拓事業を推進した明治時代の大実業家、藤田傳三郎の遺志を継ぎ、息子の平太郎によって、事業の成功と地域住民の末永い幸せを祈念する守護神として創建された。伊勢神宮と出雲大社の両神を御祭神として祀る。

岡山県岡山市南区藤田509-3 電話: 086-296-8073

株式会社いのうえ

大正2年に井上葬具店から始まった株式会社いのうえは2013年に創業100年を迎えた。都市化を見据えた新たな葬儀スタイルの提案など伝統と革新を見極めながら成長する全国屈指の葬儀社。

倉敷市二日市511-1 Tel.086-429-1000
http://inoue-gr.jp/

編集者PLUG

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